ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストを知る知識のかおり

 

 「神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

 ある人たち(闇を愛し、光や正しいことを憎みキリストに敵対する人たち)にとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たち(光を求め、義に飢え渇き救いを求める人たち)にとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。」(コリント第二2:14ー16)

 

 パウロは、キリストゆえの苦しみを幾度もくぐりました。

 パウロは言います。

 「彼らはキリストのしもべですか。私(パウロ)は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」(コリント第二11:23-28)

 

 パウロたち使徒の通った信仰の道は、本当にいばらの道でした。

 

 いばらの道と言えば、私たちの主イエス・キリストが歩まれた道です。使徒たちの地上に残された人生は、福音宣教のために、キリストの足跡を辿る人生でした。

 

 聖書には、キリストが歩まれる道が預言されていました。イエスが降誕される七百年以上も前の預言者イザヤが預言しています。

 「彼(キリスト)は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。屠り場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 しいたげと、さばきによって、彼は(世から)取り去られた。

 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民(神の民)のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者(自分を誇って神に高ぶる、罪ある者)とともに葬られた。(キリストは、神のことばを語り、神のみわざをなした神の御子であられるのに、讃えられることもなく、祝福されることもなく、愛されることもなく死刑囚として死に、人々からつまらない者のように扱われて、聖者としてではなく、尊厳のかけらもない忘れ去られる者の墓に葬られた)」(イザヤ53:7-9)

 

 「キリスト」は、神の御前で執り成す祭司の油と、神のことばを語る預言者の油と、人々を統べ治める王の油が注がれた、神の救い主です。

 キリストのかおりとは、魂を救うために自分のいのちを与える者の神の御前のかぐわしいかおりです。

 

 パウロは、「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。」と言っています。

 

 キリストを砕いて、痛めることは、主御自身の御心である、と聖書にあります。

 「もしキリストが、自分のいのちを(罪の呪いである死が定まっている人類の)罪過のための生贄とするなら、彼(キリスト)は末長く(とこしえに)、子孫(キリストの犠牲によっていのちを得た、御霊の子どもたち)を見ることができ、主の御心は彼(キリストのいのちの苦しみ)によって成し遂げられる。

 彼(キリスト)は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(キリストにつく多くの魂を悪魔から勝ち取って、凱旋の行列に加えられ、神のみもとに戦利品としてささげられるからです)」(イザヤ53:10,11)

 

 神は、キリストを信じ御霊に聞き従う私たちを導いて、キリストがご自分の肉体によって開いてくださった「いのちの道」、すなわち、死に勝利する勝利の行列に加えてくださり、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

 

 キリストを知る知識のかおり、永遠のいのちを得させる真理のかおりは、神の前にかぐわしいキリストのかおりです。

 

 真理の御霊は、キリストを知る知識のかおりであり、いのちのかおりです。

 「『光が、闇の中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(コリント第二4:6)

 

 「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに(キリストが再臨されるときに)称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(信仰の苦しみは、キリストの現われのときに、賛美と栄光と誉れに変わるでしょう)」(ペテロ第一1:6,7)

 

 私たちは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども、信じており、言葉に尽くせない、輝きに満ちた喜びに溢れています。

 「それは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:9)

 

 救われている人にとっては輝かしい喜びであり、キリストを知る知識のかおりは、永遠のいのちのかおりです。

 

 しかし、滅びる人々にとっては、キリストを知る知識のかおりは、永遠の死に至らせる死のかおりです。

 「その場合、この世の神(この世を支配する者、偽りの神)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光【真理の光】を輝かせないようにしているのです。」(コリント第二4:4)

 

 不信者たちが私たちの福音のことばを信じないのは、私たちの福音に覆いが掛かっているのではなく、滅びる人々の場合に、覆いが掛かっているのです。

 

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには、神の力である)」(コリント第一1:18)