悟りという概念は、仏陀が悟りを得る以前からあったようです。
修行者たちは、悟りを目指して修行していたようです。悟りは、仏教の目指すゴールなのでしょうか。
世のあらゆるものは常に変化し、「諸行無常」であること。
この世が実体ではなく、また、この世のあらゆる事物や現象には、永遠に変わらぬものはないこと。「我」という実体すらなく、事物は因果関係によって互いに影響し合って存在いる。すべての事物は、永遠不滅の実体ではないのだから、執着するのは正しいことではない。また、なにごとも自分の思いどおりにはならない。
人間の中には自分自身で制することができない煩悩があり、執着を捨てることで煩悩を克服し、安らぎの境地に達する。
あらゆるものは変わり続け、生あるものは必ず死ぬというこの世の道理、人間の宿命を受け入れることが悟りの第一歩ということでしょうか。
悟りは、煩悩を抱える人間にとって生命の最高の状態であり、未解決の生老病死の問題さえ超越する境地のようです。
仏陀は、座禅の中で、煩悩すら姿を見せない「無我」の境地である「空(くう)」があることに至ったようです。
悟りの行き着いた場所は、「空(くう)」でした。すべては互いに関係し合い、影響し合い、繋がりでできていて、固定的実体はないこと。さまざまな要素が絡み合った存在であって、有と無、肯定と否定、両方の意味を内包しつつ、実体はない。世界のありのままの姿は、「空」ということでしょうか。
聖書の中には、知恵者と言われるイスラエルのソロモン王の言葉が書かれています。
「空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
ひとつの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。」(伝道者1:2-5)
仏陀は、諸行無常の先に「空(くう)」を見ました。
ソロモンは、時代は巡り、地で起こることは時代が変わろうと新しいことは一つもなく、昔起こったことがまた起こるだけだという、すでにあるものの繰り返しに「空(くう)」を見ました。
仏陀の場合は、神概念を持たないところからの探究により辿り着いた悟りの「空」でした。
ソロモンの場合は、神を知っている者のあきらめに似た悟りの「空」です。
イエスは、ベタニヤのマリアとマルタ姉妹の弟のラザロが病気であることを知らされました。
イエスは言われました。
「ラザロの病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。神の子(ナザレのイエス)がそれによって栄光を受けるためです。」
イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれた後も、そこに二日間留まられ、それから、ラザロのもとに行かれました。
イエスは弟子たちに、ラザロを眠りから覚ましに行くと言われました。
そして、はっきりと言われました。
「ラザロは死んだのです。わたし(イエス)は、あなたがた(弟子たち)のため、すなわちあなたがたが(ナザレのイエスがキリストであることを)信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、ラザロのところへ行きましょう。(キリストは病人を癒すだけではなく、死人をも甦らせる神の御子です)」
(イエスを見ると、ラザロの姉の)マルタはイエスに向かって言いました。
「『主よ。もし(イエスが)ここにいてくださったなら、私の兄弟(ラザロ)は死ななかったでしょうに。
(ラザロが死んで悲しみにくれる)今でも私は知っております。(悲しみの中でも、イエスへの信仰を失うことはありません)あなた(イエス)が神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。(イエスは、神に愛された特別な聖者です。神はあなたとともにおられます)』
イエスは彼女(マルタ)に言われた。
『あなたの兄弟(ラザロ)は甦ります。』(イエスは、ラザロを甦らせると言われたのです)
マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日の甦りの時に、彼が甦ることを知っております。(ユダヤ人には、終わりの日に、死者は甦るという信仰があったようです)』
イエスは言われた。
『わたしは、甦りです。いのちです。(神の御子イエスは、死に打ち勝ち、永遠のいのちで甦ります)わたし(神の御子イエス・キリスト)を信じる者は、死んでも生きるのです。(人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることとが定められています。しかし、神の御子イエス・キリストを信じる者は、死んでも甦り、永遠に生きるのです)
また、生きていてわたし(イエス・キリスト)を信じる者は、決して死ぬことがありません。(信じる者の魂は、天に帰るのです)このことを信じますか。』
彼女(マルタ)はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなた(ナザレのイエス)が世に来られる神の子キリスト(メシア)である、と信じております。』」(ヨハネ11:20-27)
イエスは、ご自分が正真正銘のキリスト(イスラエルが待ち望んだメシア)であることを、マルタに話されました。マルタも、そのことを信じていると応答しました。
イエスは、ラザロを甦らせる力がご自分にあることを語られました。しかし、マルタにはそのことがわかりませんでした。
マルタの妹のマリアがやって来ました。
「マリアは、イエスのおられた所に来て、(イエスに)お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もし(イエスが)ここにいてくださったなら、私の兄弟(ラザロ)は死ななかったでしょうに。』
そこでイエスは、彼女(マリア)が泣き(嘆き)、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いている(嘆いている)のをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。(イスラエルは、神の御子を目の前にしていながら、死人を甦らせる神の御力を信じることができないのです。神の祭司の民として召されたイスラエルに、神の栄光を仰ぐ信仰はどこにあるのでしょうか。まるで、神の御力を知らない、偶像の神々に仕える異邦人のようではありませんか)
『彼(ラザロ)をどこに置きましたか。』
彼らはイエスに言った。『主よ。来てください。』
イエスは涙を流された。(イエスは、アブラハムの子孫イスラエルの中に、アブラハムの信仰が残っていないことを悲しまれました。彼らの父祖アブラハムは、「神には人を死者の中から甦らせることもできる。」と考えて、ひとり子イサクを燔祭でささげたではありませんか。それで、神は、アブラハムのことを「わたしの友」と呼ばれたのです。神の友であるアブラハムの子孫の中に、生きた信仰がないのです)
そこで、ユダヤ人たちは言った。『ご覧なさい。主はどんなに彼(ラザロ)を愛しておられたことか。』(人々は、イエスの涙は、死んだラザロを愛するゆえの涙だと思いました)
しかし、『盲人の目をあけたこの方(ナザレのイエス)が、あの人(ラザロ)を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。(なんと、不信仰はイスラエルに蔓延しているのです。信仰を、一から教えなければなりません)
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、(ラザロの)墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』
死んだ人(ラザロ)の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』
イエスは彼女に言われた。『もしあなたが(イエスを)信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは(あなたに)言ったではありませんか。(マルタは、終わりの日に甦ると思っていました。しかし、イエスは、「あなたの兄弟は甦ります。」と言われたのです)』
それで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。
『父よ。(天の父よ)わたし(神の御子イエス)の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたし(神の御子)は、あなた(父)がいつもわたし(御子)の願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなた(神)がわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(イエスは、群衆にわかるように、あえて父に向かって声をあげました。それは、天の神とイエスとの交わりを見せて、イエスが本当に天の神から遣わされた者であることを悟らせるためでした。イエスと天の神の間には、レビ人の祭司の仲介は必要ないのです。イエスは、神の御前に出る祭司よりも親しく、父と子として、生けるまことの神と交わる神のひとり子なのです)
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。
『ラザロよ。出て来なさい。』
すると、死んでいた人が(死んで四日も経っているラザロが)手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。(ラザロは死から甦り、埋葬時の姿で墓から出て来た)彼の顔は布切れで包まれていた。
イエスは彼らに言われた。『(ラザロのからだを包んでいた布切れを)ほどいてやって、帰らせなさい。』」(ヨハネ11:32-44)
人間は、「空(くう)」を見ます。
しかし、神の御子は神の栄光を見ておられるのです。
仏教は「空(くう)」を悟りとします。人間の思いは神から離れ、現世にはない悠久を見つめます。
しかし、聖書は、「神の御子キリスト」を悟りとし、神の栄光を仰ぎます。
イエスは、実在する不変の実体「父なる神」を人々に知らせます。神の御子イエスは、イスラエルの不信仰に驚かれました。
イスラエルの信仰は、「人の子」として来られた神の御子イエスどころか、「天の神」への信仰も心許ないではありませんか。
イエスは悲しまれた。
「人の子が来るとき(人々を救うためにキリストが天からやって来るとき)、はたして地上に信仰が見られるであろうか。」(ルカ18:8)
神の存在を知っている伝道者は言います。もはや、「空の空」とは言いません。
「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざ(思いや言葉や行ない)を裁かれるからだ。」(伝道者12:13)