「イエスは弟子たちに言われた。
『よく聞きなさい。富んでいる者(金持ち)が天国にはいるのは、むずかしいものである。(金持ちの心は地上にあり、自分を取り巻く豊かな物質の世界にあるからである)また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国(キリストが治められる千年王国の神の都、そこにはいのちの木がある)にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。』(針の穴は、エルサレム郊外にあった、らくだが荷をおろすとやっと通れるような小さな門の呼び名です)
弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った。『では、だれが救われることができるのだろう。』
イエスは彼らを見つめて言われた。
『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない。』」(マタイ19:23-26)
エルサレムにらくだでやって来た商人や旅人は、針の穴と呼ばれる小さな狭い門を通らなければなりませんでした。らくだに背負わせた荷物を全部おろして、らくだを通らせました。
全部荷物をおろして身軽になったらくだが、やっと通れるほどの小さな門が、針の穴です。
イエスは、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい、と言われました。
弟子たちは、らくだが針の穴を手間取って通る様子を思い浮かべたことでしょう。
イエスが弟子たちにこの話をするきっかけは、金持ちの青年が、イエスに「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな善いことをしたらいいでしょうか。」と尋ねたことにありました。
イエスは、青年に答えました。
「なぜ善い事についてわたし(イエス)に尋ねるのか。善い方はただひとりだけである。(神だけが秘密を握る善い方です。善は神おひとりです。あなたは、イエスを神から出た者だと信じているのですか)
もし(永遠の)いのちにはいりたいと思うなら、(神の)戒めを守りなさい。」
「彼は言った。『どの戒めですか。』
イエスは言われた。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え。』また『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。(隣人に害を与えず、慈しみを持って関わり、自分自身のように愛しなさい)』
この青年はイエスに言った。『それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう』(青年は、永遠のいのちを得るために、神の戒めを注意深く守ってきたのでしょう)
イエスは彼に言われた。
『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたし(神の御子イエス・キリスト)に従ってきなさい。(そうすれば、あなたは永遠のいのちを受けるでしょう)』
このことばを聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」(マタイ19:16-22)
イエスは、青年を見て、彼は彼の資産に執着があることをご覧になりました。彼は、山のように積み上げた大荷物を背負ったまま、針の穴にはいろうとするらくだでした。決して、その小さくて狭い門をはいることはできません。
人は裸で生まれ、はだかでかしこに帰る。死ぬとき、何も持っていけません。すべての物を地上に置いたまま去って行くのです。
イエスは言われました。「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
金持ちに財産を与えるのは、神なのです。神の祝福が働いているからです。神から貰った物を神に感謝して貧しい人々に分け与えるならば、地上の豊かさだけではなく、天にも宝を積むこととなるのです。
しかし、たくさんの資産を持つ青年は、自分の資産を減らすことを惜しみました。投資のためならば喜んで資産を使うでしょうが、貧しい人々に施しても、お金は倍になって戻って来ることはありません。減る一方です。持ち物を売り払ってまで、施さなければならないでしょうか。
天の宝とは何でしょうか。地上の財産が天に移されるというのでしょうか。どうやって、天の宝を見ることができるでしょうか。本当に天にあるのでしょうか。
イエスは、地上の資産を天に積み、その上で、イエスに従って来るように、と言うではありませんか。資産をなくしたうえ、時間も人生もイエスにささげなければならないのですか。
イエスの弟子たちを見ると、みな身軽です。財産を持たない生き方なんて、青年にはありえないことです。資産は青年の誇りなのです。
青年は悲しみました。自分は、イエスの弟子たちのように生きることはできません。永遠のいのちを得るために、イエスに善い事を求めたけれども、意表を突かれました。貧乏な人には容易いことでしょうが、資産に恵まれ、資産家の生活に充足している青年には、死と等しい内容です。
永遠のいのちを得ることを希望する青年の心の拠り所は、資産にあったのです。資産と永遠のいのちを天秤にかけるとは思ってもいませんでした。資産と結びついている青年の心は、永遠のいのちの価値を見誤りました。
イエスは、天の御国のことを教えている時に弟子たちに話されました。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45,46)
値打ちのわかる者は、全財産を売り払ってでも、その宝(永遠のいのち)を手に入れて、天の御国を自分のものとするのです。
イエスは、この永遠の宝(永遠のいのち)について、弟子たちに言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたし(神の御子イエス・キリスト)について来なさい。
いのちを救おう思う者はそれを失い、わたし(キリスト)のためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(自分の頼みとしている財産や知識や地位や能力に執着して、神から得るものよりも大切にするならば、神からのものは得られず、キリストについて行く道を選ぶために、たとい全財産を失うとしても、それは、地上の人生を失うかのように見えて、実は、永遠のいのちを得て天の御国にはいる、永遠の宝を持つのです)
(一度死ぬことと死後に裁きを受けることとが定まっている)人は、たとい全世界を手にいれても(この世で成功しても)、まことのいのち(死んでも甦り、天の御国にはいる永遠のいのち)を損じたら、何の得がありましょう。そのいのち(キリストが与える永遠のいのち)を買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)
本当に価値を見出す者、神が用意された隠された宝(永遠のいのち)の値打ちを知る者は、全財産を売り払ってでも、手に入れたいと思うのです。
富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいとイエスは言われました。
貧しい者には失うものがありません。初めから何も持っていないからです。しかし、富んでいる者は多くのものを、狭い門にはいるために手放さなければならないのです。
弟子たちは非常に驚きました。
「では、だれが救われることができるのだろう。」
悲しみながら帰って行った青年は、神の戒めを守っていたではありませんか。
イエスは言われました。
「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない。」
人が自分自身で天の御国にはいるために努力しても、永遠のいのちを得させられるのは、神です。
金持ちの取税人ザアカイは、イエスに何と言いましたか。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍に返します。」(ルカ19:8)
イエスは、多くの資産を持つ青年に言ったようなことは、ザアカイに言っておられません。ザアカイ自ら、財産の半分を貧しい人たちに施すことを誓ったのです。しかも、ユダヤ人たちから税を多く取り立てて私腹を肥やしていたザアカイは、だまし取った物を四倍にして返すとまで言ったのです。
なぜでしょう。ザアカイは回心したのです。イエスに赦しのともなう愛を見、ザアカイは罪を悔改めたからです。
ザアカイの心は、神によって新しい心にされたのです。
金持ちのすべてが神の国に入れないのではありません。
イエスに愛を見る者のうちに、神は働かれます。
あの青年は、永遠のいのちを求めましたが、イエスへの愛はありませんでした。自分を生かすことが望みなのです。イエスの愛にも気づくことはありませんでした。
「人(の心)が主に向くなら、その覆い(神との間を隔てている罪)は取り除かれるのです。
主は御霊です。(人の心をも変えられます。神には、新しい心を与える用意があります)そして、主の御霊のあるところには自由があります。(主の御霊は、心に神を求める小さな望みを見つけるならば、その人にまことの希望の光イエスを知らせることがおできになるのです)」(コリント第二3:16,17)
人に不可能に思えることであっても、神に不可能はありません。
そんなこと無理だろう、と自分自身の中に信仰を持つことができないようなことであっても、祈りましょう。
神の御心ならば、神の霊が働き、可能にしてくださるでしょう。
神にはどんなことでもできるからです。