ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本の二つ巴の和合 三つ巴の救い

 

 「二つ巴」や「三つ巴」は、神社の神紋・寺紋に見かけるマークです。

 

 稲光や、神霊が宿るとされる勾玉(まがたま)、あるいは人魂(ひとだま)をかたどった形とされる巴(ともえ)。

 水の渦巻きを表すとする説、勾玉とする説、稲妻・雷とする説、胎児を表すとする説など、様々あるようです。

 

 また、弓を射るときに用いられた装身具である鞆(とも)をかたどったもの、という説もあるようです。鞆とは、矢を射った反動で弦が弓の持ち手に当たることを防止するために手首に巻き付けるもので、革製の丸く膨らんだ部分を内側にして革紐で結びつけて装着するものだそうです。

 巴の、勾玉のような形状は、この鞆の絵のようだとして、「鞆絵(ともえ)」の呼び名となり、のちに「うずまき」の意味を包有する「巴」の字が当てられたようだ、と発光大王堂の家紋のページにあります。

 

 二つ巴は、円から細長い尾が生えたような図形が二つ、円形に組み合わされたもの。

 三つ巴は、円から細長い尾が生えたような図形が三つ、円形に組み合わされたもの。

 

 二つ巴には、陰陽を表すイメージがあります。

 

 三つ巴には、三つのものが対立している、と考える説があるようですが、神社やお寺で見かけるものですから、三つのものが和合して組み合わさっていると考える方が、自然に感じます。

 

 「日本の色」というブログの太鼓の知識(その1)で紹介されている三つ巴の説明によると、

 「すべてのものは虚と無の二つの宇宙から構成され、陰と陽から成り立っているという太極思想の見方により、たとえば明暗、肯定と否定、男女など、極限の対立と調和をかたどる二つ巴を原点とする。

 日本に伝えられた二つ巴は、平安時代に奇数による日本的統制の和を示して三つ巴が完成した。」としています。

 

 古からある日本の雅楽の大太鼓(だだいこ)は、左方、右方の左右一対になっており、向かって左は金色の日形(にちぎょう)と龍の飾りがつき、鼓の中央の巴は三つ巴、右は銀色の月形(げつきょう)と鳳凰の飾りがつき、巴は二つ巴だそうです。そして、これが、巴紋の本来の意味を示している、と考えられているようです。

 また、太鼓の周囲に火焔の飾りがあることから「火焔太鼓(かえんだいこ)」とも呼ばれているようです。

 

 二つ巴の大太鼓には月と鳳凰が、三つ巴の大太鼓には太陽と龍の飾りがあります。

 

 私には、円から細長い尾が生えたような図形で勾玉(まがたま)の形状を連想させる「巴」は、言霊(ことだま)、神の聖霊のすがたに見えます。

 

 二つ巴の大太鼓の月と鳳凰。二つ巴は大和魂を育てた神道と仏教、鳳凰は南朝と北朝の天皇。月は終わりの時代に現れる真理(まことの太陽〈天の神〉)の影。

 月に象徴される地上の日本国は、まことの神の国「とこしえのイスラエル」(霊的な神の国、すなわち、真理の御霊〈生けるまことの神の聖霊〉がかたち造るとこしえの国)が現れるまで、神の祭司の務めをしつつ、まことの神の国(神に愛されたとこしえのイスラエル、すなわち、信仰の勝利者たちの永遠のいのちの国)の栄光を映し出す月光。すなわち、神を信じない不信仰な闇の世界にあって、唯一生けるまことの神への信仰を保ち続け、まことの神の国を世に生むために造られた、真理を愛する影の国。

 鳳凰は、日本国の安寧と世界平和のための祈りを欠かさず守り伝承してきた北朝の天皇と、神に隠された南朝の天皇。鶴と亀は入れ替わっていたが、再び、鶴(終わりの時代に出現させるために、世界を救う者として神が隠しておられた南朝の天皇)が姿を現わし、南朝と北朝の天皇は世界の救いのために一つのものとなること。

 源氏と平家の争いは終わり、憎しみも恨みも癒されて和解し、ともに一つ心となって生けるまことの神の国を造る時が訪れるのでしょう。

 

 二つ巴は、和合を表すのでしょう。分離し二分していた神道と仏教の和合。源氏と平家の和合。南朝の天皇と北朝の天皇の和合。戦国時代の東軍と西軍の和解と和合等、反目しているものが和解すると本来の姿とされる。二つ巴は、神の御前での正しい姿を表しているのでしょう。

 

 三つ巴の大太鼓の太陽と龍。三つ巴には、神道仏教習合によって和を尊ぶ国民を育てた大和民族の精神と信仰が、天地万物を造られた生けるまことの神に受け入れられ、そして、最初の人アダムと一体の妻であるエバを騙して死に至らせた蛇の頭の悪魔を滅ぼす神のひとり子の民とされることが、隠されているように思いました。

 太陽に象徴される日本国は、沈まない太陽(神の栄光)の国(千年王国)を、あかしする役割があるようです。

 生けるまことの神の姿を知らない古の人は、最も強い生き物を象徴する龍を神の姿として捉えたのでしょう。

 

 神社の神紋やお寺の寺紋の二つ巴と、三つ巴のマークとは、終わりの時代に日本国から「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」のふたりのメシアを出現させられる天の神が、日本国に残しておられた神のしるしのように思われます。

 

 縄文人の自然崇拝信仰と、渡来して大和民族をつくったユダヤ人の祭儀を伴う神信仰の融合。

 霊なる神を畏れ敬う神道の信仰と、正しい道を歩む人のあり方を自然の中に尋ね求める仏教の精神性の習合。

 神から国造りがゆだねられた南朝の天皇と北朝の天皇の和合と一致。

 

 二つのものが和解し一つのものとなると、神の御計画が動き始めるのではないでしょうか。

 地位を奪われて隠されていた南朝の天皇の癒しと回復、そして、北朝の天皇との和解と和合と一致。

 これには、日本国に隠されていた古代ユダヤのメッセージが隠されているように思います。すなわち、二部族の南ユダ王国と、十部族の北イスラエル王国が、再び一つに集められ和合してイスラエル十二部族の一つの国民となり、分裂のない、イスラエル王国が再び姿を現わす、ということです。

 

 太鼓の周囲に火焔のある大太鼓は、聖霊の火のバプテスマによって、きよめられた姿であることを表しているように思います。

 

 三つ巴は、古代ユダヤの回復した姿。聖書的に解釈すると、神が中心にあって、祭祀と王が仕える姿です。

 

 「『燭台(七つの御霊の教会の真中に立つ方、足までたれた衣を着て、胸には金の帯を締めた、人の子のような方が立っていた。[黙示録1:12,13]すなわち、千年王国に建つ「とこしえのイスラエル王国」の王座に着く神の子羊キリスト・イエス)の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。』

 私(預言者ゼカリヤ)は再び尋ねて言った。

 『二本の金の管によって油を注ぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。』

 すると、彼(御使い)は、私(ゼカリヤ)にこう言った。

 『あなた(ゼカリヤ)は、これらが何か知らないのか。』

 私(ゼカリヤ)は言った。『主よ。知りません。』

 彼(御使い)は言った。『これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油注がれた者だ。(神が終わりの時代に立たせる油注がれた者たち、すなわち、ユダヤ人の時にはいって反キリストが神殿の丘に神の神殿を建てさせる時から、千二百六十日の間預言するふたりの証人[黙示録11:3,4]』」(ゼカリヤ4:11-14)

 

 終わりの時代にユダヤ人の救いのため、世界の救いのために働く「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」。ユダの総督(指導者)と大祭司ヨシュアの働きをするふたりが、とこしえのイスラエル王国で、イスラエルの王(神の子羊キリスト・イエス)の右と左にすわる者として神に備えられた人々のようです。

 

 南朝と北朝の天皇の一致した思いによって、世界を救う「卍の紋章のイスラエルのメシア」が出現するように思います。

 

 十字の紋章を持つ「白い兄(火のごとき女)」が、聖霊に導かれて「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」を主イエス・キリストの御名によって任命し、、そして、十四万四千人のユダヤ人の完成を見、異邦人の殉教者の完成を見届けると、異邦人の時は完成するのでしょう。

 

 卍の紋章の人と、○の紋章の人と、十字の紋章の人の一致、すなわち、仏教的な「人として正しく歩むための信仰」と、神道的な「聖なる神を畏れ崇める信仰」と、キリスト教的な「神の御霊の導きに聞き従う信仰」、この三つが一つとなった信仰に、生けるまことの神を霊とまことによって礼拝する生きた信仰があり、ここに永遠のいのちがある、と思いました。

 

 三つ巴は、御救いの完成の姿。

 救いの信仰は、大和民族に隠されていました。

 和と秩序を重んじ、自然と調和する大和魂。そこに、神の子羊イエスの血の贖いと、真理の御霊の導きを得るとき、天が開かれるのでしょう。

 

 聖書の神は、約束しておられます。

 「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる。」(ローマ11:25,26)

 

 日本の「日月神示」では、大和魂は神と人と解け合った姿だと言っています。みたまとは、身(み)と魂(たま)が一つとなっているものであって、身(行ない)と魂(思いや心)の分け隔てのない状態で、きよめられて、神と融合する姿のようです。

 大和民族が持っていた大和魂が覚醒して、生けるまことの神を礼拝する御霊を得るならば、日本人の多くの人が救われることでしょう。