「神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方(「人の子」として来られた神の御子イエス)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方(罪の贖いの血を流された神の子羊イエス)にあって、神の義となるためです。(すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなかった。しかし、神は、神の子羊イエスの血で私たちの罪を贖い、信仰による義を用意されました)」(コリント第二5:20,21)
人の成り立ちを知らない人にとっては、意味不明のことばです。
神との和解って何ですか。私たちはいつ罪を犯しましたか。また、神って誰のことですか。
「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)
確かに、必ず人間は死にます。若かった肉体は老いて古くなり、機能は弱まり、やがて、息は止まります。
それは、太古の昔からあることで、誰もが行く道なのではないですか。
死後の裁きって何ですか。裁く者があるということですか。何を裁くのですか。
人の成り立ちを知れば、この言葉の意味を理解することができます。
人は、神という存在によって、目的をもって造られた、ということです。
神は、いのちの根源であって、万物(すべてのもの)の存在の目的であり、また原因でもある方です。
すべてのものは、ひとりの神によって造られているというのです。神がおられなければ、何ものも存在していないのです。
造られた人間が、「神はいない。神は私を造らなかった。」と言っても、その人は死に、死後に神によって裁かれることが定まっているというのです。
神は、生まれてきた人を死なせ、死んだ後に裁くために、人を造ったのですか。
いいえ、神は、万物を支配する者、エデンの園の管理者とするために、人を造られました。
神には、ひとり子がおります。
神のひとり子の神格を妬み、神のひとり子を憎む天使長ルシファーを天から追放した神は、反逆の天使長に率いられてルシファーとともに天から出て行った天使たちを憐れまれました。
天から追放された堕天使たちは、闇の中です。漆黒の闇は、光さえも飲み込みます。
神には、暗い所がありません。全き光の神、いのちの根源である主に対して、漆黒の闇の堕天使たちは神に逆らう反逆者、死をもたらす破壊者となって、闇の支配者となりました。
堕天使長は悪魔、堕天使たちは悪霊と呼ばれます。彼らに輝きはありません。偽りの光を放ちますが、やがて化けの皮ははがれ、恐ろしい正体を現わすのです。
神に造られた人が置かれたエデンの園には、善悪を知る知識の木といのちの木とがありました。
神は、人に命じて仰せられました。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)
神には、ひとり子がいました。神の御子です。ひとり子は、「神のことば」と呼ばれていました。人は、神のことばとともにありました。
神が地球を造られたとき、すでに、闇があり、悪魔は存在していました。
神は、堕天使たちのいる漆黒の闇に、全き光である神を思い出させる光を設けられました。神は、悪魔の支配から逃げ惑う堕天使たちを憐れみ、救いの星を設けられたのでしょう。そこには、エデンの園がありました。
エデンの園にある善悪の知識の木は、堕天使たちの試みのために置かれていたのでしょう。悪魔のように、「神のように賢くなりたい。神のように高くなって王座を得たい。」と考える者は、神のような知識を得ようとして善悪の知識の木の実を取って食べるでしょう。
神のように賢くなりたいという願いは、悪魔から発せられる罪の願いです。罪とは、神に逆らう霊、神にへりくだらない霊、神を主人とせず自分を主人とする霊とともにあることです。
悪魔の霊は、天から追放された堕天使長と同じ思いを持つ心に、足場を持ちます。悪魔につき従う悪霊どもは多くいます。天から追放された堕天使たちのうち、悪魔に従う邪悪な堕天使たちです。
神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾でした。悪魔は、蛇に足場を設け、蛇の口を通して、園の管理者である人に語りました。
蛇は、神のことばに逆らわせる滑らかな言葉をエバに語りました。エバは、蛇の言葉を心地よく感じました。そして、善悪の知識の木の実を見ると、神のように賢くするというその実は好ましいものに見えました。
神のことば(神の命令)とともにあるときには、善悪の知識の木の実を見ても、食べたいという思いは芽生えなかったことでしょう。死が頭をよぎります。
しかし、蛇の言葉は、食べたくなるように誘惑してきます。エバは、その誘惑に負けました。そして、アダムがエバの言葉に従い、善悪の知識の木の実を食べると、「神のことばから外れた報い」として、「死」を得たのでした。
人のいのちに二つのソケットはありません。一つだけです。いのちの源は一つだけなのです。悪魔の言葉と繋がると、死と繋がりました。神のことばから受けていたいのちから外れたからです。アダムが死と繋がったために、すべての人は死にます。エバから生まれた人類は、すべて、死を抱えて生まれてきています。
人が死ぬことは当たり前のことではなく、罪の結果なのです。罪とは、神のことばから外れて、悪魔の言葉に繋がったことです。人は罪によって、神のひとり子を憎む悪魔と繋がり、神のひとり子と断ち切られました。一つだった神のことばと人は絶縁しました。そして、創造主であられる「神」は、被造物である「人」を勘当しました。
神のひとり子とともに、エデンの園を支配する管理者であった人は、「死」と結ばれ、神のひとり子と人はたもとを分かちました。神のひとり子は永遠に生きる方、しかし、人は死ぬべき者となったからです。神は、悪魔の思いと一つとなって死ぬ者となった人を、エデンの園から追放しました。人は、神のことばである神のひとり子を裏切りました。神の命令に背いたのです。人は、神のひとり子の敵対者、神に反逆する悪魔に囚われました。
人が死ぬこと。それは、人に罪があることのあかしです。罪の報酬は死だからです。死ななければならないのは、罪を持っているからです。
罪を持っている者は、人を造られた創造主である神のもとに帰ることはできません。光に戻ることはできないのです。神には暗い所が一つもありません。罪がないのです。
いのちの根源の全き光の中には、罪のない者たち、すなわち、罪を犯したことのない者、光の御使いたちがいます。
死ぬ人はみな永遠に闇に葬られます。
神は、光を消す破壊者である悪魔と悪霊どもとを裁き、永遠の火の池にいれることを定めておられます。
永遠の火の池に、悪魔と悪霊どもを投げ入れた後で、いのちを破壊する悪魔が生じさせた「死」と、「闇」も投げ込まれます。
死と闇も、永遠の火の池の中にはいることが定まっています。
死の中には、死んだ人たちがいます。アダムとエバから生まれた人類は、みな、死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっているとは、このことです。
神は、悪魔の言葉に捕らえられて、囚われの身となった人を憐れまれます。
人は、そんな神の愛を知らず、「神はいない。」と言い、「神がいるなら、こんなひどい状況を許されるはずがない。こんな状況を許される愛も憐れみもない神なんて、神だとは信じない。」と神を否定します。
神の耳に、神を否定する人々の言葉が怒涛のように鳴り響きます。
しかし、神は、罪人に手を差し伸べて、御自分と和解させられました。
どのようにしてでしょうか。
神は、御自分のひとり子に肉体を造り、「人の子」イエスとして、神の祭司の民として造ったイスラエルに遣わされました。
神が天から遣わされた「人の子」(ナザレのイエス)は、同胞のユダヤ人たちに、父(天地万物を造られた全能の神、すなわち、ユダヤ人たちが「私たちの神」と呼んでいる神)について、天の御国について、永遠のいのちについて、聖霊について教え、自ら罪を贖う神の子羊として、十字架で、世の罪を取り除く贖いの血を流されました。
神は、人類の罪を取り除くために、罪のない神の子羊の「罪の贖いの血」を要求されたからです。
神は、私たちの罪を贖い、神に裁かれる違反のない者とするために、御自分のひとり子を、私たちに与えてくださいました。
人(アダム)に裏切られた神のひとり子は、神のひとり子の敵である悪魔の言葉に従って「死」に落ちた人の身代わりとなって罪の呪いを受けるために、御子の栄光の御姿を捨てて、卑しい罪人と同じ姿の「人の子」となって、私たちにご自身をお与えくださいました。
神は、神の子羊イエスのきよい血によって、私たちの罪を帳消しにし、私たちを「義」としてくださいます。
人類が負うべき神の呪いは、十字架の神の子羊イエスの上に置かれました。神は、イエスの聖なる贖いの血により、違反行為の責めを人々に負わせないで、この世を御自分と和解させてくださったのです。
神の御子イエスは、十字架の死にまで、神に従われました。全き人ナザレのイエスひとりの従順によって多くの人が義人とされます。
「ひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(神の子羊イエス)の従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:19)
「罪が死によって支配したように、恵み(神の愛によるキリストの十字架のみわざ)が、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物(信仰のしるしであるキリストの御霊)によって支配し、永遠のいのちを得させるためです。」(ローマ5:21)
ひとりの人(アダムの違反)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったと同様に、ひとりの人(神の子羊イエス)の義の行為によってすべての人が義と認められて、いのち(一度死んでも死から甦る永遠のいのち)を与えられるのです。
神は、罪を知らない神の御子イエスを、私たちの代わりに罪とされました。それによって、私たちの違反行為(罪)の責めを私たちに負わせないで私たちを義とし、私たちを御自分と和解させてくださったのです。
神のほうから和解の手を差し伸べられました。私たちに何のいさおしもないのに、神は私たちの「死」を憐れみ、御自分の御子に私たちの罪を負わせ、罰せられたのです。
神との和解は、罪の赦しです。
神との和解は、永遠のいのちです。
神の和解のことば(神のひとり子イエス・キリスト)を受けた私たちは、神の愛を知りました。
神は私たちを愛しておられます。御自分の愛するひとり子をお与えになるほどに愛しておられます。
神は、私たちを義としてくださいました。
神も、キリストも、神の和解を受け入れるようにと、懇願しておられるようです。
神も、神の御子キリストも、私たちがみもとに来るのを待っておられるのです。