ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストの福音

 

 キリストの福音は、真理の神の良き知らせです。

 キリストは、天の神(永遠に生きておられる生けるまことの神)が、預言者の油、祭司の油、王の油の三つの油を注いで、世に遣わされた「神の子羊イエス」です。

 

 神の子羊イエスは、世の罪を取り除き、滅びゆく人類を滅びの世から救い出すために、神が地上に造られた「神の祭司の国民イスラエル」に遣わされた「罪の贖いの子羊」です。

 神は、神のひとり子に肉体を造り、「人の子」として、ユダヤ人の処女の胎に宿し、祭司の国民イスラエルに、生贄の子羊として遣わされました。燔祭の子羊を神御自身が用意されたのです。

 

 イスラエルの父祖アブラハムは、モリヤの地(現在の神殿の丘)に行ってアブラハムのひとり子であるイサクを燔祭の羊として神にささげるようにと神に命じられたとき、アブラハムはただちに従いました。

 

 アブラハムは、神には人を死者の中から甦らせることもできる、と考えました。

 アブラハムは、神から約束を与えられていました。

 「神はアブラハムに対して、『(アブラハムとサラのひとり子)イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのです。」(へブル11:18)

 

 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。

 アブラハムは、イサクを連れてモリヤへ行き、神の示す山で、祭壇を築いてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。

 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子イサクを屠ろうとしたとき、主の使いが天からアブラハムを呼び、言いました。

 「『あなたの手を、その子(イサク)に下してはならない。今、わたし(神)は、あなた(アブラハム)が神を恐れることがよくわかった。

 あなたは、自分の子、自分のひとり子(跡取り)さえ惜しまないでわたし(全能の神、主)にささげた。』

 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子(イサク)の代わりに、全焼の生贄としてささげた。

 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、『主の山の上には備えがある。』と言い伝えられている。」(創世記22:12、13)

 

 信仰の父アブラハムが告白したように、主の山の上には備えがありました。

 神の怒りを鎮めるなだめの子羊として、罪を贖う神の子羊(世の罪を取り除く神の子羊イエス)を、神御自身が用意されたのです。

 

 アブラハムの子イサクは三十代後半でした。アブラハムは、百三十歳を過ぎていました。しかし、イサクは年老いた父アブラハムを押しのけて自分のいのちを救おうとしませんでした。イサクは従順な生贄となったのです。

 神は、アブラハムの信仰を認め、また、アブラハムの子イサクの信仰を祝福して、アブラハムにお与えになった神の契約と祝福とを、神御自身が認証して、イサクに継承されました。

 イサクが継承したアブラハムの財産は、イサクの子ヤコブが受け継ぎ、ヤコブの子ユダヤ民族(イスラエル)が相続しました。

 

 ちなみに、アブラハムが神との契約のしるしである「割礼」を受ける以前、すなわち、アブラムであった時に、アブラムが妻サラの女奴隷との間にもうけた男の子イシュマエルがいます。アラブ人の父祖です。

 アラブ人は、アブラハムがモリヤの地で神にささげたのはイシュマエルであったとし、神殿の丘にある、人が横たわることができるくらい大きくて畳のように平たい岩をイシュマエルをささげた場所として記念し、その上にモスクを建てました。神殿の丘にあるモスクの中には、その大きな岩があります。

 

 しかし、実際は、アブラハムと妻サラとの間に神がお与えになった男の子、百歳のアブラハムとすでに閉経している九十歳の妻サラとの間に生まれたアブラハムのひとり子イサクがささげられたのです。

 神は、アブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫(アブラハムの子孫)と呼ばれる。」と仰せられました。

 そして、アブラハムの神は、イサクから出たヤコブと契約を結び、ヤコブの子孫ユダヤ民族を「神の祭司の国民イスラエル」とされました。

 

 キリストの福音は、神の祭司の国民ユダヤ民族にゆだねられました。

 救いはユダヤ人から出るのです。

 

 古から、人間は解けない悩みを抱えて来ました。生老病死の悩み、痛みや嘆きや悲しみや苦しみ。例外なくすべての人の持つ定めでありながら、その原因と理由は謎のままです。

 だれもが女から生まれ、男と女とに分かれて生を持つ。しかし、同様に生老病死の悩みを抱え、それぞれに体験して、やがて死ぬ。

 

 因果応報(人の言動の善悪が原因となり、その報いとして善には善を、悪には悪を、その結果がその人自身に返って来ること)の法則を受け入れますが、すべての人に当てはまる「死」の原因はわかりません。

 

 人は女から生まれることと、息をして生きることと、やがて、息が止まり、肉体は朽ちて死ぬこととは、全世界共通です。例外はありません。男であろうと、女であろうと、神の祭司の国民のユダヤ人であろうと、神を知らない異邦人であろうと、すべての人の道です。

 

 人間は、国が違い、民族が違い、言語が違い、世代が違っても、すべて同様です。

 

 人は、ひとりの人から生まれ、増え広がっているのです。あらゆる時代、あらゆる世代、あらゆる言語の人みな、一つのからだから始まっているのです。人類は、ひとりの人から始まりました。

 

 神がひとりの人を造られた。これが真理です。

 土の塵から造った、と聖書にあります。神のいのちの息が吹き込まれて生きものとなりました。そのひとりの人を眠らせて、彼のあばら骨の一つを取って、もう一人の人を造られました。塵から造られた初めの人を男、男のあばら骨から造られた人を女と呼びました。神が造られた最初の男をアダム、アダムから取られた女をエバと呼びます。

 

 最初の人は、男と女に分かれて、一体となり、女が子を産んで、人類は増え広がりました。人類は、ひとりの人から始まっているのです。

 

 神のいのちの息によって、鼻から息をして生きます。いのちの息によって生かされているのです。

 アダムが神のことばから外れると、いのちの根源(神)からのいのちの息の供給が止みます。それが「死」です。神のいのちの息の流れは、止まったのです。

 

 死の原因は、神のことばに背いたことであり、神とのパイプを失ったことにあります。人(アダム)は、神に反逆し神のことばに敵対する悪魔のことばと結びついてしまい、神のことばから外れたからです。

 

 神のことばと外れると、いのちを失い、死ぬ者となりました。

 神のことばから外れたことが、人の「罪」です。

 罪の報酬は死です。罪があるから、必然として死があるのです。

 

 いのちを得るためには、死をもたらす罪を取り除かなければなりません。しかし、人はみな、生まれながらの罪人です。嘘や欺きや憎しみや怒りの種をもって生まれています。仏教のいう煩悩は、実は、生まれながら肉体の中に持っている原罪が原因です。原因がある限り、その報いが追って来て、結果を生みます。罪ある生は、必ず、死ぬのです。

 

 キリストの福音とは、人には解決できなかった、罪と死からの解放の良き知らせです。

 

 人を造られた神は、神のひとり子に肉体を造って「人の子」とし、罪を犯したことのないきよい「人の子」を用意されました。

 罪のない「人の子」の血には、いのちがあります。神と繋がるいのちです。

 神のことばから外れたアダムは、死ぬ者となりました。

 神のことばと一つの「人の子(神の御子ナザレのイエス)」は、アダムの罪を贖う生贄の子羊です。

 神は、神のことばから外れた死人の血には満足されません。神は、神のことばと一つの生きている「人の子」の血を、みずから用意されたのです。

 

 神のことばと一つの神の御子イエス・キリストは、世の罪を取り除くために神が用意された罪の贖いの子羊です。神の子羊イエスの血は、罪人の罪を贖うきよい血です。

 神は、神の子羊イエス・キリストの血を満足されました。罪のないきよい血は、天の神にささげられました。

 

 神は、神のことばから外れた人の罪を赦されました。そして、神の子羊イエスの血を受ける者、イエス・キリストの血による罪の贖いを信じる者の罪を赦されます。

 神は、彼らのうちに信仰をご覧になります。彼らは、自分の義の行為によってではなく、神御自身が用意された神の子羊の贖いのみわざを信じたことで、その信仰によって義とされるのです。

 

 神が天から遣わされた救い主イエス・キリストの血によって罪は贖われ、信じる者は罪が赦されます。人は、信仰によって罪が赦され、信仰によって神に義とせられ、神のことばから外れていた人は神と和解して、再び、神のことばに繋がります。

 神のことばと繋がり回復した者は、神のいのちと繋がります。神のいのちと繋がる者に、死はありません。

 

 肉体のいのちは死にます。しかし、神のことばと繋がる魂は、キリストの御霊によって死から甦り、新しいからだ(御霊のからだ)と新しいいのち(永遠のいのち)を受けて、神の子どもに造り変えられ、キリストのからだとなるのです。

 

 最初の人アダムは、神のいのちの息が止まり、罪ある肉体のからだは死にます。

 キリストのからだは、罪が赦され、キリストの生かす御霊によって死から甦り、永遠のいのちと新しいからだを得るのです。

 

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました(神の御子キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られたのです)が、二度目は、罪を負うためではなく、彼(主イエス・キリスト)を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(へブル9:27,28)

 

 アダムは、神のことばから外れたまま罪の中で死にます。

 しかし、キリストを信じる人は、罪が赦され神と和解し、生かす御霊を受けて神の子どもに造り変えられて、天の御国の安息の中にはいるのです。

 

 キリストが再臨されても、キリストを信じていない人々は、いのちの木の実を食べることができません。

 キリストは、キリストの再臨を待ち望み、神の子どもとされる信仰と希望を抱く人々の救いのために来られるのです。