「わたし(主)は、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたのすべての場所で、パンを欠乏させた。
それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。
―主の御告げ。―
わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。
二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。
それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。
―主の御告げ。―」(アモス4:6-8)
飢饉も、水不足も、自然が織りなす様々な事柄の背後には、神の御意思があることが書かれています。
何故、こんな事が起こるのだろう。わざわいだ、と言って人々の心は不安に陥ります。
しかし、人を造られ、人をその行ないによって裁かれる主の働きが、そこにあることを悟ることはできません。
人の思いは暗くなり、目に見えない神の存在は封印され、人の意識は科学的な判断を求めて専門家の意見に向けられます。
古の人たちは、自然災害に神の怒りをとらえて祭儀をもって神を仰ぎ、神の御前に出て悔い改め、みなの心が一つとなって神の憐れみにすがり、神の赦しと神の怒りがなぐさめられて、神が怒りの御手を思い直してくださることとを求めたものです。
イスラエルは、神への恐れを失っていました。神の御手が重くのしかかっても、そこに神の御手を意識するものではなくなっていました。
日本人も同様です。
大海に囲まれた島々の日本列島は、自然災害とともにありました。
日本列島に住む日本人は、災害のたびに神を恐れ、神を祀って来たのです。日本人の意識の根底には、日本神話がありました。神々の国であることを知っていました。信じるものではなく、生まれた時からDNAの中に持っている本能でした。
日本人は、生まれつき目に見えないものの存在の恵みを知っており、日本の神々とともにありました。また、自然災害の中に神々の怒りを見て、神を恐れて来たのです。
神々は、日本人にとって、疑う余地のない確かな存在だったのです。
戦前は、日本神話が教えられていたそうですが、戦後GHQによって、日本人の暮らしから取り除かれました。
そして、アメリカの物質主義が蔓延し、民主主義の思想によって日本人の心から神の御座を取り除き、心の王座には目に見える人間やこの世のものが据えられたのです。
目に見えるものが確かなものであって、目に見えないものの存在を信じることは幼稚な事とされました。
次第に、日本人の心は、目に見えるものによって支配され、物質的豊かさこそが求めるべき最高の道であると、経済成長のために、馬車馬のように急き立てられ働かされました。
神のしもべであった日本人は、この世の霊の奴隷にされたのです。
この世のことに心を使い、精神をすり減らして、人間の欲望を満たすことにのめり込んでいきました。
戦争に負けた心の傷は、目に見える豊かさによってまやかすものに慰めを得て、心と精神と神とは別々のものとなってしまいました。
日本人一人一人の中で、分離が進むと、自分でありながら、自分がわからなくなっていきました。
自分は何者か。自分はなぜ存在しているのか。自分はなぜ生きているのか。
精神的な葛藤が芽生えました。
神を知っていた頃の日本人は、神々の中にアイデンティティを持っていました。自分自身の中に、分離はありませんでした。
また、神々を心に持つ日本人は、自分たちのうちにおられる神々によって繋がっていたのです。神々の下に日本民族はいて、神々を仰ぐことで、日本民族の結束がありました。
聖書の民ユダヤ人には、神を信じないという選択肢はなかったようです。神がおられるのは当然のこと、疑う余地のない事実なのです。
おそらく、かつての日本人も同様な神の民だったのでしょう。一つの国の国民がすべて神を恐れるという環境だったのです。神を信じる人もあれば、そうでもない人がいるという国ではありません。
単一民族とされる日本民族です。様々な渡来人もいますが、彼らの民族ではなく、すべて、大和民族の中に集約され、日本民族として成長して来たのです。
しかし、今の日本人は、日本民族とは言えないように思います。日本国の国籍があっても、日本民族ではないのです。日本人であっても、日本民族ではありません。
日本民族の根には、大和民族があります。大和民族の精神を受け継いだものが、本来の日本民族だと言えます。
大和民族の精神には、神を恐れる心がありました。
「和をもって貴しと為す」という精神によって育まれてきた民族です。根底には、神道と仏教が融合する神仏習合の教えがありました。
神道と仏教は、ともに、日本民族の養育係でした。
和楽webの聖徳太子「十七条憲法」を徹底解説。現代語訳を読んでみたい!の記事を参照すると、聖徳太子は、「篤く三宝を敬え、三宝とは仏と法と僧なり」と十七条憲法第二条に定めています。
「あつく仏教を信仰しなさい。仏教はあらゆる生きものの最後に帰するところ、すべての国々の仰ぐ究極の拠り所である。どのような時代のどのような人々でも、この法を崇めないことがあるだろうか。(法は人間が正しく生きるために大切な教えである)心底からの悪人はまれであり、よく教え諭せば必ず従わせることができる。仏教に帰依しないで、どうしてよこしまな心を正すことができるだろうか。」
第三条では、「詔(みことのり)を受けては必ず慎め」とあります。
「天皇の命を受けたら、必ずそれに従え。たとえるなら君(天皇)は天、臣(天皇の民、すなわち、大和民族)は地。天が万物を覆い、地が万物を載せる。それによって四季は規則正しく移りゆき、万物を活動させるのだ。もし地が天を覆おうとするなら、この秩序は破壊されてしまう。そのように、君主(天皇)の言に臣下(日本民族)は必ず承服し、上の者が行なえば下の者はそれに従うのだ。だから、天皇の命を受けたら必ず従え。もし従わなければ、結局は自滅するであろう。」
私は、世界を救うとされる「イスラエルのメシア」は仏法の生き方をしている人、「アロンのメシア」は古から神々に仕える人、と考えていますので、大和民族の精神の中枢にある「大和魂」、神とともにあった魂そのもののようなふたりだと思います。
神は、一度壊滅的なダメージを受けた日本人に、あらゆる方法で現われて、御自身を知らせようとしておられます。
地震も、火山噴火も、大風も大雨も、津波も、自然災害のたびに神々を恐れ悔い改めていた大和民族の子孫に伸ばされた神の御手。すなわち、悪しき霊が働いて日本人の心を暗くし霊の目を塞いで覆った不信仰のうろこを落とすための、神の御手のわざなのかも知れません。
神は、大和民族の意識を、目に見えるこの世から、目に見えない霊的なものへと戻すために、日本列島を揺さぶっておられるのでしょう。
それなのに、思いは暗く、「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」と神を嘆かせたユダヤ人のようではなく、どうか、心を目に見えないものに向けて、先祖から受け継いでいる霊的な感性を取り戻してください。
神は、日本人を救おうと、私たちが神に帰って来るのを待っておられるのです。
有難い事に、昨今、多くの日本人が神に導かれるようにして、神社仏閣に行って、手を合わせているようです。日本人は、信仰を取り戻しているのです。
イスラエルを愛される神は、御自分のもとに帰って来ないイスラエルに誓われます。
「『それゆえイスラエルよ、わたし(天地万物を造られた主)はあなたにこのように行なおう。
わたしはあなたにこのことをするから、イスラエルよ、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。』
見よ。山々を造り、風を造り出し、人の思いが如何なるかをその人に示し(天の思いは人の理解を超えていることを知らせ)、また曙を変えて暗闇となし(自然の摂理さえ変えることのできる神)、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主と言う。」(アモス4:12,13)
神は、自然界を揺さぶり、人知を超える方、生きておられる神を知らされます。
それは、いのちの道をわきまえず、闇にさまよう日本人の魂を惜しみ憐れんでおられる、私たちの神(日本人が古から拝み信仰してきた神々、実は、天の神)によるのです。
神は、日本人の遺伝子に語りかけておられます。
「あなたの神に会う備えをせよ。」