ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の御心はあなたがたが聖くなることです

 

 「私たち(使徒パウロたち)が、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。

 神の御心は、あなたがたが聖くなることです。

 あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。(神を信じて光の子とされながら、闇(不品行の罪)の歩みをすることは、闇の子らのさばきよりも重いのです)これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。

 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。

 ですから、このこと(聖くあること)を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。(互いに和合して穏やかに暮らす)あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」(テサロニケ第一4:2-9)

 

 神に感謝し、互いに愛し合い、喜びをもって歩むことは、神に喜ばれることです。

 しかし、神を知らずに生きていた異邦人にとって、神の御心を知ることは容易い事ではありません。

 

 日本人は、「和を持って貴しと為す」の精神の記憶を宿す民族です。

 聖徳太子の教えには、仏法(人が正しく生きるための生き方)を守り、現人神(あらひとがみ)としての天皇の覆いを受けて、生けるまことの神に仕える祭司であられる天皇に従う、という大和民族の精神をかたち造る大和魂の土台がありました。

 

 しかし、日本国の文明の進化と、敗戦の痛手によって、日本人の精神は病み、本来の在り方を失いました。

 天皇は日本国の象徴とされて、現人神の務めをはぎ取られ、天皇と国民との間にあった同一の信仰は、GHQによって打ち砕かれました。天皇は祭儀をもって神に仕え、国民は天皇を敬愛しつつ、天皇を立てておられる神に感謝して神に祈りをささげていました。日本国は、天皇を中心として、神とも人とも和合し、目に見えない同一の神に守られていたのです。

 あらゆる自然にいのちを見、目に見えない神々を恐れる日本民族の純粋な信仰は、戦後「第一の獣」に噛みつかれて、目に見えない神を恐れ心の中心に神々への信仰があった大和魂の土台を崩されて、生きた信仰を取り除けられてしまったのです。

 

 日本人の信仰は、すでに、明治維新の神仏分離令により、仏教的要素を取り除いて神武天皇の時代のような天皇を中心とする政治体制を戻そうとする新政府によって、変化せざるを得ませんでした。

 敗戦後の日本国は、大和魂の土台を揺るがした廃仏毀釈の深傷の上に、日本人の精神そのもの、神への信仰をも打ち砕かれました。

 

 仏教の教えは、臣民(天皇の民)として良い生き方をするために、必要な養育係でした。しかし、養育係を解任することで、日本人の精神を正しく育てるものがなくなりました。

 神道には教義がありません。仏教の教えを包含した神仏習合によって、養われていた日本人の精神は、弱化します。神道と仏教の両輪揃って、神を恐れ和と秩序を重んじる大和魂は養われていました。しかし、片輪となって、天皇はおられるけれども、臣民としての心得、すなわち大和魂の素養は脆弱となりました。日本民族の質が劣化し始めたのです。

 

 ユダヤ的に見れば、神道は神の民としてのしるしの割礼の役割があって、仏教の教えは律法の役割をもっているように思います。

 肉体の割礼を持つ神の民が、神の律法を守らない、という状態です。

 

 神は、アブラハムに命じられました。

 「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたし(神)の契約を破ったのである。」(創世記17:14)

 

 神は、モーセに命じられました。

 「もしあなたがた(神の民)が、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたし(天地万物の創造主、生けるまことの神)のものであるから。

 (神の契約を守り、神の律法を守る)あなたがたはわたし(天の神)にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:5,6)

 

 戦後、日本人の心は、天皇を中心とする目に見えない神の秩序がわからなくなって、天皇の上に立たれる神から離れました。自分自身の欲求を満たすために、神々を求める日本国民が増えました。天皇に神の権威を認めて、国民の心が天皇が仕えておられる神を仰ぐという信仰は、かたちを変えたのです。

 日本人の神との関係は希薄になり、大和魂は目に見える人に向かいました。

 

 日本人が覚醒し始めると、神の土台を失っている日本人は、人との間で和合することで大和魂は回復した、と思い違いをします。

 本来の大和魂の柱は、神だったのです。自然と調和し、生かしてくださる神に感謝し、目に映るすべてのものに神々の栄光を見、いのちを慈しみ、神にへりくだる、先祖たちのうちにあった大和魂ではないのです。

 

 人との和合は大切なものです。しかし、本来、日本民族にあった大和魂は、神を恐れ、目に見えない神々にへりくだって、神とともに歩むアブラハムのような生きた信仰によって一つの民族となる、結び目だったのです。

 

 人との和合では、到達しません。人々と心ひとつになっても、神との繋がりがないならば、真の光を得ることはできません。永遠のいのちを得させてくださるのは、神です。生けるまことの神との関係ができて、魂は平安を得るのです。

 

 パウロは、コリント教会の中に互いに愛し合う兄弟愛があることを認めて、ほめています。

 しかし、不品行があることも知っていました。

 

 神との交わりのない、信仰から出ていない愛によって、人を愛することは、情欲の霊に足場を与えるという欠落があります。

 

 パウロは言います。

 「(人の)からだは不品行のためにあるのではなく、主の(栄光の)ためであり、主はからだ(キリストのからだ、すなわち、キリストが頭でキリストの御旨を成すキリストのからだ)のためです。

 神は主(イエス・キリスト)を甦らせましたが、その(甦りの)御力によって私たち(御霊の器)をも甦らせてくださいます。

 あなたがたのからだはキリストのからだ(永遠に生きる神の子ども)の一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。(不品行の罪を犯すのですか)そんなことは絶対に許されません。(神が聖別された御霊の器は、神の栄光のためにあるのです)

 遊女(不品行な者)と交われば、一つからだ(罪と交わる汚れたからだ)になることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。(その場合、一つからだとするのは御霊ではなく、死を宿す悪霊なのです)

 しかし、主と交われば、一つ霊(御霊の器)となるのです。

 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、体の外のものです。しかし、不信仰を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(御霊によって生まれた者の肉のからだは、神の子羊イエスと一つとなってキリストの十字架で死んでおり、御霊によって新しいからだ〈永遠に生きる復活のからだ〉を受ける神の子どもとされているのです)

 あなたがたは、代価(神のひとり子イエス・キリストの血)を払って(死と悪魔から)買い取られたのです。ですから(神に買い取られ、キリストの血によって贖われたあなたがたは)自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:13-20)

 

 神と和解すること、そして、神の子どもにふさわしく聖い者となることが求められます。

 神の御救いを得させられる光の子は、不品行を避け、自分のからだを聖く、また尊く保つわきまえとともに、自然と調和し、神の霊と和合することで、神の霊を持つ人々がともに一つとなり、神の秩序を守ることができるのです。

 

 神への信仰が土台にない魂は、人との和合の喜びを得ても、永遠のいのちを受け取ることはできません。

 神の霊に目が開かれて、神の霊とともに歩むならば、必ず、生ける神のみもとへと導かれます。

 感謝も喜びも祈りも、神への信仰によって成長するのです。

 

 神の御心は、光の子らが聖くなることです。

 その「聖さ」は、神の御霊のうちにあるのです。

 

 神は、御霊のきよめの火によって、一人ひとりの内側を聖められます。

 肉の思いを焼き、肉にある罪や汚れを焼き尽くし、神の栄光を現わす「聖霊の器」に造り変えられるのです。