エデンの園から追放されたアダムとエバに、子どもが生まれました。
カインを産み、それからまた、弟アベルを産みました。弟アベルは羊を飼う者となり、兄のカインは土を耕す者となりました。
ある時期になって、ふたりは、それぞれ主へのささげ物を持って来ました。
「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で。持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」(創世記4:3-5)
カインとアベルは、それぞれ自分の労働の実を主へのささげ物として持って来ました。
羊を飼うアベルは、自分が所有する羊の中の初子から、傷のない最良のものを選び、自分自身で持って来ました。
アベルの心は、恵みに満ちた神を仰いでおり、いと高き神にふさわしく、けがれのない初子の中から最良のものを選んで、恭しく、自分自身で持って来たと思われます。
一方、土を耕すカインは、地の作物の中から持って来ました。カインは、主のために初穂を持って来なかったようです。カインの心は、主を恐れ敬う正しい心ではなく、主にささげる時期になったので、形式的に、自分の手もとにある作物の中から持って来たと思われます。カインのささげ物には、心がこもっていませんでした。
各々のささげ物とささげるふたりの心とをご覧になった主は、主を敬うアベルの心とアベルの真心のこもった最良のささげ物とに目を留められ、カインとそのささげ物には目を留められなかったのです。
キリストの使徒パウロは、天の御国に招かれる神の子どもたちに言います。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全(神に喜ばれる最良のささげ物)であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:1、2)
主は、すべてのささげ物に目を留めて、何でも受け入れてくださる方ではないようです。
主は、いと高き神にふさわしいささげ物を受け入れられます。それは、神を敬い崇める心と真心のこもったささげ物です。高価な物という意味ではありません。心のこもった物です。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分の憐れみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(私たちが救われるのは、私たちの義の行ないによるのではなく、信仰により御霊によって新しく生まれ、御霊に導かれて信仰から信仰に進み、神の子どもに新しく造り変えられることによるのであって、神の栄光のわざなのです)」(テトス3:5)
キリストが世の罪を取り除く血による贖いのみわざを完成された現在、キリストの贖いの血を信じて、御霊によって新しく生まれ真理の御霊に取り扱われて新しく創造される第二のアダム(キリストにつく人々)に、神は、何を望まれるのでしょうか。
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼の生贄や、その他の生贄(犠牲)を喜ばれるだろうか。
見よ。(神の御霊に)聞き従うことは、生贄(あなたがたの犠牲)にまさり、(神の御声に)耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(どんなささげ物にもまさる)」(サムエル第一15:22)
サムエルの時代は、神に油注がれた者の上にだけ聖霊が置かれていました。それゆえ、人々は、その油注がれた人に聞き従わなければなりませんでした。
しかし、聖霊が注がれている現在では、聖霊のバプテスマを授けるキリストにつく民は、イエス・キリストの御名によって神から聖霊を授けられます。
それゆえ、聖霊を受けた人々は、主の御声を自分自身で聞くことができ、御霊に聞き従う信仰の歩みをすることができます。
さて、神に目を留められなかったカインはひどく怒り、神に目を留められたアベルを妬んで、神に対して憤って顔を伏せました。
「そこで、主は、カインに仰せられた。
『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
あなた(カイン)が正しく行なったのであれば(正しい心で行なったのであれば)、(あなたは主に)受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら(あなたの心が神の御前で曇りのある、不真実なものであるなら)、罪は戸口で待ち伏せして(悪しき霊がカインの心に足場を捜して)、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。(悪しき霊に足場を与えないように、妬みや怒りや憎しみの感情をコントロールして、自分の心を見張り正しく管理しなければならない)」(創世記4:6,7)
しかし、カインは神のことばに背き、妬みと憤りの感情を治めることなく、弟アベルを殺しました。
主がカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われたとき、カインは、「知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」と悪びれる風もありません。
父アダムは、神のことばに背いたとき、主の御顔を避けて隠れました。
しかし、カインは隠れるどころか、「自分が何をしたのでしょうか。」と平然としています。殺人を犯しても、何とも思っていないのです。
神は、カインに、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」と仰せられ、カインはその土地に呪われていること、土地を耕す者であったカインのために土地はもはや実を結ばないこと。呪われたカインはこの土地を離れなければならないことを宣告されました。
カインは、自分の罪を悔いるのではなく、その罪の報酬である呪いに打ちのめされました。
「私の罰は重くて負いきれません。私はこの土地を追い出されたので、私はあなたの御顔(主の御顔)から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者は、だれでも、私を殺すでしょう。」(創世記4:13,14)
アダムは、神のことばに背いたとき、主の御顔を避けました。
カインは、自分の罪ゆえに呪われ、土地を追い出されたので、主の御顔から隠れなければならない(神から離れなければならない)、と言いました。自分の中の罪に対しての後ろめたさや後悔はないのです。罪の意識を感じない者でした。
アダムよりも罪の根は深く、カインの心に巣くっていたのです。人の罪は受け継がれ、また、先代よりも一層罪深い悪い者となりました。こうして、人は、神から遠く離れて行ったのです。
カインの心は、弟に詫びる心も、神に気が咎める心もないのです。ただ、自分自身のこれからを案じ、自分の身を心配する者でした。
獣の霊に牛耳られたカインは、人の霊を殺しました。
このように人の子ではなくなったカインに対しても、神の慈悲は現われました。
「主は彼(カイン)に仰せられた。
『そうではない。だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』」(創世記4:15)
カインは、神から生命の保障を受けたのでした。
神は、獣の霊を受け獣の道を選んだカインに対しても、カインの望みを聞かれて、生命の守りを保証されました。
このカインの子孫はすべて、ノアの時代に、大水で流されて滅ぼされました。
神は、アダムにもうひとりの男の子を与えられました。
エバは男の子を産み、その子をセツと名づけて言いました。
「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、もうひとりの子を授けられました。」(創世記4:25)
「セツにもまた男の子が生まれた。彼(セツ)は、その子をエノシュと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。」(創世記4:26)
神は、慈悲深いお方です。
アダムはふたりの男の子を、ふたりとも失いました。アベルはカインに殺され、カインは神から離れて行ったのです。
しかし、神は、アダムに、もうひとりの男の子を与えられました。
セツは、アダムに似た、アダムのかたちどおりの子でした。
「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼(アダム)はその子をセツと名づけた。」(創世記5:3)
神は、アダムのかたちどおりの子セツの子孫を祝福されました。人々は主の名を呼ぶようになったのです。彼らには、主を仰ぐ心があったのです。
セツから五代目のエノクは、神とともに歩む者であり、神に喜ばれ、生きたまま天に引き上げられました。
エノクの三代目にノアが生まれ、ノアの時代に、地を大水で洗い、ノアの三人の息子たちから世を再スタートされたのです。
神は、アダムに似た、アダムのかたちどおりのセツから、ノアを生み、ノアの時代に、暴虐に満ちた悪い世を大水で滅ぼされました。
神は、ノアの子セムからアブラハムを生み、アブラハムからイサクを生み、イサクからヤコブを生み、ヤコブからユダヤ民族(神の祭司の国民イスラエル)を造られ、イスラエルに神のひとり子(神の子羊イエス・キリスト)を遣わされたのです。
ノアの時代、悪い世を水で滅ぼされた神は、終わりの時代、神の子羊イエス・キリストを信じない悪い世と反キリストの民(獣の民)を火で滅ぼされます。
そうして、キリストの民に永遠のいのちを得させて、とこしえの安息(天の御国)にはいらせられるのです。