神道であろうと、仏教であろうと、キリスト教であろうと、無宗教の人であろうと、終わりが近づくにつれて、様々な事象に心が落ち着かず、先の見えない世界に希望が持てずに、確かなもの、安心させてくれる心の拠り所を求め始めます。
日本人は、忘れてかけていた祈りをし始めます。神社仏閣へ行って手を合わせる人もいるでしょう。キリスト教会の門を叩く人もいるでしょう。
精神的な飢え渇きに気づく人もいるでしょう。物質に向けられていた欲望は枯れて、心の渇きを潤すものを切に求め始めます。
眠っていた遺伝子は、その求めに答えて、祈りへと導きます。誰に言われたからでもありません。何故か導かれるのです。自分の意思のようで自分の意志ではないのです。
心の向くまま、ひとりで神前に、あるいは仏前に手を合わせます。また、自然豊かな場所へ行き、鳥の声、水の音、風の心地よさ、太陽の光、流れる雲、広がる大空に、心の休まる場所がまだあったのだ、と慰められます。
山を仰げば動じることのない励ましを受け、川面に懐かしい日々に思いを馳せ、木々の緑にいのちの輝きを感じ、踏む土に魂の歩みを思い返します。
渇いていた心は、水中花のように水を得て開きます。生きていることを思い起こし、久しぶりに自分と向き合います。
私は、生きているんだ。自然を見て心はやわらぎ、花々に目が留まると立ち止まり、花々がきれいだと思う感情に浸ります。
神は、日本人が、我に返る時を待っておられました。
日本人は忙しかった。家族が心配することは煩わしいと、目も合わせず、ひとりになりたかった。しかし、ひとりであっても空しい。孤独は嫌なのに、ひとりになりたい。願いどおりひとりなのに、心は満足していない。
何故か、心がいつも、留守の状態でした。あれもこれもとせわしなく心を使っているのに、なぜか、心は空っぽ。たくさんのものを持っているようで、ひとりになると、何もないことに気づいて、どうなっているんだろうと考えても、堂々巡りの日々。答えは見つからない。
答えのないまま、走り続け、やっと、落ち着いて考える時を持つ。
先送りにしていた自分自身の問題。だれかに聞いてもらいたいが、話す人はいない。気がつけば、心を素直に表現する生き方をどこで忘れてきたのだろう。
しかし、それは良い兆候。神は、その人のうちに働いておられるのです。
聖書に出て来る放蕩息子の話。
父親から自分の分け前をもらうと、父からもらった財産をもって家を飛び出します。そして、その財産を湯水のように使って、面白おかしく過ごします。
しかし、財産は湧いて出る泉ではありません。尽きる時がきます。そんな時、飢饉に見舞われます。景気の良かった時にいっしょに遊んでいた人々は、お金がなくなると離れて行きました。飢饉の中で、助けてくれる人は誰もいません。自分のお金で遊ばせてやっていた連中も冷たいものです。
放蕩息子は生き延びるために、豚飼いのところでやっと職を得ました。豚がえさのイナゴ豆を食べているを見て、余計に腹を空かせます。飢え死にしそうです。豚でも食べる物があるのに、自分は惨めで仕方ありません。
放蕩息子は、出て来た父の家を思い出しました。二度と帰らないと思っていた父の家には、多くの雇い人たちがいて、パンはあり余っていました。
腹をすかせた放蕩息子は、我に返りました。自分は何をしているのだろう。父の家では、雇い人たちもひもじいことなく、安心して暮らしていたではないか。
「父の家に帰ろう。」と思い立ちます。そして、自分の愚かさを恥じ、父に対して横柄であった自分、また、神に対して感謝のなかった自分に気づいたのです。
放蕩息子は言いました。
「父のところに行って、言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなた(お父さん)の前に罪を犯しました。(私は、神にも、お父さんにも罪を犯した価値のない者です)
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。(私を、お父さんの家の雇い人として雇ってください)」(ルカ15:18,19)
放蕩息子が父のもとへ行くと、なんと、まだ家まで遠かったのに、父親は息子を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱きしめました。
父親は、出て行った息子を心配して、帰って来るのを待っていました。毎日毎日、息子が出て行った方向を遠く眺めながら無事を祈り、帰って来ることを待ち望んでいたことでしょう。
ようやく、父親の願いがかなったのです。父の心は喜びで満ち溢れ、神への感謝で空を舞う思いです。
息子は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」(ルカ15:21)
息子は神の愛を悟らず、神の用意された祝福を踏みつけにして神を欺く者でした。また、父の愛を悟らず、父を裏切り父の愛を踏みにじり、父親を嘆かせる者でした。自分の欲望と快楽に心が塞がれ、父の痛みには無頓着な者でした。
しかし、苦しみの中で、神が与えておられた恵みの環境を悟り、父に犯した罪に気づいたのです。
しかし、父は「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言って、雇い人たちに、息子の身支度を命じました。
雇い人に靴はありませんが、息子には靴が用意されました。晴れ着を着せ、自分の財産を管理する指輪(印鑑)を与えるほどの歓待です。
放蕩息子は、我に返り、悔い改め、正しい方向に向きを戻しました。父の家に帰ったのです。
父は、放蕩息子が帰って来たことを喜び、彼を大切な息子として迎えました。父は、息子の放蕩を赦していたのです。父は、父の家を出て父から離れた息子の、飢え死にしそうなほどに変わり果てた惨めな姿をあわれんだのです。
父は、どのような姿であっても、息子が帰って来ることを待っていたのです。
日本人の魂は、目に見えない生けるまことの神を崇め祀って来た先祖たちの信仰によって守られています。
日本人の心が、文明のブルドーザーで大きくえぐられて死んだようになっていても、先祖たちの神々は、日本人が我に返って、ご自分のもとに帰って来ることを待っておられました。
放蕩息子は、飢饉によって、頑なな心が砕かれ、神にへりくだる心に立ち返りました。
日本人は、経済的困窮や、様々な災害や苦難に遭遇して、人間世界に確かなものがないことを悟りました。様々な苦難から救われることを願い始めました。日本人の頑なな心が砕かれ始めたのです。
神仏なんかに頼らなくても、自分たちの力で発展し、より豊かな暮らしを実現できると高ぶっていました。いつしか、神仏に祈ることは力のない弱者のすることのように信仰は蔑まれ、日本人の心は宗教を嫌い、信仰を棄てました。祈るのは、自分の欲望を成就させるための願い事です。
バベルの塔を築き始めた二ムロデのように、神から思いが離れた者に成り下がっていました。
ひとり一人の心の中には、信仰の根があるのに、信仰の根を踏みつけていました。
しかし、日本国では、どのような時代になろうとも、静かに黙々と、神社の宮司たちは祈祷をし、巫女は舞い、祭りを祝い、お寺の僧侶は読経をかかさずにしていました。
日本人一人ひとりの心から信仰はねこぎにされましたが、日本列島には信仰が残されていました。
座禅を組む人、滝行をする人、写経をする人、日本神話を研究する人も、わずかに残っていました。
外国人の中に禅に親しむ人が起こりました。日本人の中に、神社仏閣巡りに赴く人が起こりました。少しずつ、堅く閉じていた信仰の芽が芽吹き始めました。
それでも、多くの日本人は、この世の事柄に没頭していて、精神的なことへの関心はあっても実行に移す心の余裕がありませんでした。
ところが、2025年には、日本人が覚醒し始めました。精神的な求めに素直になったのです。
信仰の根は、もともと日本人の中にありました。
我に返った日本人は、神仏の前で手を合わせ、心を向けます。
心の安らかさを求めていたのに、いつしか確かな救いを求めるようになっていました。真理を求めるようになったのです。
偽りが蔓延する社会で、本当のもの、真実なもの、嘘のないもの、欺きのないもの、汚れのないものを心が捜し始め、きよらかなものを求め始めたのではないかと思います。
仏教の人は仏法の中に、神道の人は祭儀と神示の中に、キリスト教の人は聖書の中に、それぞれ、真理を探究し始めたのではないかと思います。
ヒンズー教のガンジーは、ヒンズー教の教えを忠実に守りつつ、真理を求め続けました。すると、真理は「神」であることに気づきました。そして、様々な体験から、神は愛であることを悟ったのです。
ガンジーは自分の霊で、聖書の神に出会ったのではないかと思います。
真理の道の行き着くところは、天地万物を造られた天の神だからです。
ガンジーは、霊とまことによって真理を求め、ヒンズー教の中に身を置きながら、真理の神、主にたどり着いたのだと思います。
我に返った日本人は、これから、おのおの真理を求めることとなるでしょう。
仏教を信じる人は仏の教えである仏法の中に、神道を信じる人は神示の中に、キリスト教を信じる人は聖書の中に捜し、自分の霊で追い求めるでしょう。
それぞれの魂が、霊によって真理に近づく時、仏教も神道もキリスト教も、同じ御霊に行き着くのでしょう。同じ神の霊に導かれていることを知る由もなく辿り着くと、そこには、仏教の真実な魂、神道の真実な魂、キリスト教の真実な魂、そのほかの宗教の真実な魂、無宗教の真実な魂が集まり、一つとなるのです。それが、御霊の教会です。天の神が「永遠のいのち」を授けられる復活のからだの教会です。
キリスト教徒であるから永遠のいのちが得られるのではなく、神の御霊を受けて御霊に教えられる「御霊の教会」の中にいのちがあり、霊とまことによって生けるまことの神を礼拝する真実な魂が一つになるのです。
真理を目指す者が、自分の霊で真理を見極め、御霊によっていのちの道を歩きます。
仏教と神道とキリスト教を和合させるという人間の努力によるものではないと思います。それぞれが互いを認め尊重しつつ、真理を愛するならば、御霊によって、御霊の教会へと導かれるのでしょう。
真理は一つですから、真理の御霊に導かれるならば、千年王国に導かれるのでしょう。
仏教の目指す三千世界と阿弥陀如来、神道が目指す弥勒の世と国常立神、キリスト教が目指す千年王国とイスラエルの王(神の子羊イエス・キリスト)は、名称が異なるだけで、同一のものだと、私は考えます。
それぞれが、真理を求め、真理を目指して神の霊に教えられ、霊のきよめと魂の御救いを受けて、待ち望んだ新しい世界に入るのだと思います。
真実な心で真理を求め、真理を知ろうと、真理を目指している真実な魂に、神の霊がともにおられると思います。
真理の御霊を受けると、神への感謝とともに、自分への感謝、また、家族や先祖への感謝が回復するのでしょう。