ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

創世記七章 神は世を水で滅ぼす時きよくない動物も残された

 

 「主はノアに仰せられた。

 『あなた(ノア)とあなたの全家族(ノアの信仰に準じる身内の者)とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代(地は神の前に堕落し暴虐に満ちていた時代)にあって、わたし(全能の神、主)の前に正しいのを、わたしが見たからである。

 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。

 それは、あと七日たつと、わたし(主)は、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。』

ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」(創世記7:1-5)

 

 神は、悪くなった世を滅ぼすに当たって、きよい物だけを取り分けられたのではありませんでした。

 正しい世にリセットしようとするならば、正しいもの、きよいもの、良いものだけを残して、きよくないものはすべて滅ぼされるのかと思いきや、神は、あえて、きよくない動物の中からもひとつがいの雄と雌を残されました。

 

 きよい生き物は七つがいずつ、しかし、きよくない生き物は一つがいずつ、残されました。7:1の割合で残されましたが、時の経過とともに、その比率は逆転し、やがて、すべて悪いものとなることがわかった上でのことです。

 

 神が命じられたすべてのものが箱舟にはいると、主は、ノアのうしろの戸を閉ざされました。

 箱舟の戸はノアが閉めたのではありません。神がお定めになったものが全部、救いの箱舟の中にはいると、神御自身が戸を堅く閉ざされました。

 箱舟を造ったのはノアとノアの家族でしたが、大洪水を起こして地上のすべてのものを滅ぼすのも、箱舟にはいったものを水の滅びから救い出すのも、主御自身なのです。

 

 主が仰せられたとおり、大雨は、四十日四十夜、地の上に降りました。

 「水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。

 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに十五キュビト(6m60㎝)増し加わったので、山々はおおわれてしまった。

 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。

 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。

 ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。

 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」(創世記7:17-24)

 

 地球上の山々は水でおおわれました。箱舟が座礁するような障害物はありません。地球は厚い水の層に包まれたのです。このような事が、実際に起こったのですね。

 現在の地表において、山の上で海のものが発見されている理由は、ノアの時代の大洪水によるものでした。

 

 大雨が止み、地の上に増え続けた水が引き始め、水はしだいに地から引いていくと、箱舟はアララテの山の上に留まりました。

 アララテ山は、トルコの東にある標高5,137mの山だそうです。

 

 トルコは不思議な地です。

 大水の滅びから救い出されたノアの箱舟が留まったのがトルコです。この地から、人類の歴史は再スタートしました。

 

 黙示録に書かれたキリストの国民である「七つの御霊の教会」、すなわち、エペソの教会と、スミルナの教会と、ペルガモの教会、テアテラの教会、サルデスの教会、フィラデルフィアの教会、ラオデキヤの教会の七つの教会は、トルコにあります。

 おそらく、トルコにある七つの教会は、黙示録に書かれた教会のひな型でしょう。

 私は、黙示録の七つの教会のひな型の教会が置かれたトルコから、反キリストが出るのだと考えています。

 

 天の御国を相続する七つの教会は、御霊の教会(御霊によって生まれ、新生した新しい人の教会)であり、反キリストに勝利し、決してキリストを否まなかった人たち、信仰の勝利者の教会です。

 反キリストは、自分の領土(暗闇の支配者悪魔の権威を帯びる反キリストの支配下)に閉じ込めて彼らの信仰を奪おうと働きましたが、彼らは屈しませんでした。七つの教会は、反キリストの勢力に屈することなく闇の世の中で光として輝く魂、また、キリストの御霊の助けにより、キリストの勝利の御力に繋がって神の栄光を現わす神の子どもたちなのです。彼らは、自分のいのちによって神の真実を証明し、その信仰によって神から永遠のいのちを与えられる人たちなのです。

 

 神は、エデンの園に、いのちの木だけではなく、善悪の知識の木も置かれました。

 魂を試みるためです。神のことばにへりくだり、心から神のことば(神のひとり子)を愛する者と、自分自身の為に死ぬのが嫌だから神のことば(神のひとり子)に繋がって自分のいのちを愛する者とをより分けるためでしょう。しかし、自分を愛する者は、悪魔の誘惑に弱いのです。

 

 善悪の知識の木の実を食べないから、神の御子を愛しているとは言えません。死なないために、自分のために食べない人もいます。

 神は、ひとり子のために、最も良いものをお与えになります。神の御子キリストを自分のいのちよりも愛する者たちをキリストのより近くに、新しい天に住まわせ、また、少ししか愛さない者は、新しい地に住まわせられることでしょう。

 新しい天に住む神の子どもたちも、新しい地に住む神の子どもたちも、悪魔に勝利し、反キリストに勝利した、信仰の勝利者たちです。彼らは、キリストを否むことがありませんでした。

 

 さて、水で世を滅ぼされた主は、きよくないものをも残されました。

 彼らは、エデンの園の善悪の知識の木のような試みの存在です。きよくないものの存在によって、神は信仰を試されます。

 

 神は、エジプトの奴隷として四百年の間、苦しめたイスラエルを、モーセによってエジプトの地から連れ出し、また、ヨシュアを立てて、カナンの地の住民と戦わせて、神がイスラエルの先祖に誓った地(カナンの地)にはいらせました。

 

 神は、カナンの地を占領するイスラエルに仰せられました。

 「わたし(アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イスラエルの神、主)はあなたがた(イスラエル)をエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地(ユダヤ民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブが眠っている先祖の地、イスラエルが所有すべきカナンの地)に連れて来て言った。

 『わたし(主)はあなたがた(イスラエル)との契約を決して破らない。

 あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇(カナンの地の住民たちの神々の祭壇)を取りこわさなければならない。』

 ところが、あなたがた(イスラエル)はわたし(主)の声に聞き従わなかった。

 なぜこのようなことをしたのか。(ユダヤ民族十二部族のそれぞれの部族は、おのおのその割り当て地にはいると、その土地に住む先住民を追い払わず、先住民の中に住みついた)

 それゆえわたし(イスラエルの聖なる方、主)は言う。

 『わたし(主)はあなたがたの前から彼ら(先住民)を追い出さない。彼ら(イスラエルが神に聞き従わずに先住民を追い払わないで、自分たちが所有する土地に残した先住民)はあなたがたの敵となり、彼らの神々(主の忌み嫌われる偶像の神々)はあなたがたにとってわなとなる。』」(士師記2:1-3)

 

 イスラエルが神に聞き従って生きている間(正しいさばきつかさの生きている間)は、神が敵の手から救われましたが、さばきつかさが死ぬと、イスラエルは堕落して、頑迷な生き方(偶像礼拝)を捨てませんでした。

 

 「それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。

 『この民(神にそむき、心頑ななイスラエル)は、わたし(イスラエルの神)が彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民(先住民)を、彼らの前から一つも追い払わない。

 彼らの先祖たちが主の道を歩んだように、彼らもまたそれを守って歩むかどうか、これらの国民(残しておいた先住民、イスラエルの敵)によってイスラエルを試みるためである。(神が先祖に命じた「あなた(イスラエル)には、わたし(イスラエルの神、主)のほかに、ほかの神々があってはならない。偶像の神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。」の掟に、イスラエルが聞き従い、本当に神を恐れる正しいものかどうか、神に聞き従うかどうかを試すためである)』

 こうして、主はこれらの国民(イスラエルの敵となる先住民)をただちに追い出さないで、残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。」(士師記2:20-23)

 

 神は、カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエル(カナンの地で生まれたイスラエル人)を試みるために、主はイスラエルの敵となる先住民を残しておかれました。先住民を残された神の御旨は、ただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教えて、神の相続は戦いに勝利して得ることを知らせるためでした。彼らの先祖たちは、戦いに勝利して、先祖の地を所有したのです。

 

 神は、御自分の民イスラエルが神を恐れ、神に仕えるかどうかを試みるために、イスラエルの敵を、イスラエルの土地に残しておられるというのです。

 「これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者(イスラエルの土地に居るイスラエルの敵)によってイスラエルを試み(イスラエルの心を調べ)、そして(イスラエルの信仰を)知るためであった。」(士師記3:4)

 

 神にへりくだり、イスラエルの神をイスラエルの杖とし拠り所として生きるならば、平和を、もし、イスラエルの神以外のものを頼みとするならば、敵に圧迫され苦しめられるのです。

 

 神が神のひとり子を遣わされた現在においては、モーセの律法に聞き従うかどうかではなく、神が遣わされた神の御子イエス・キリストに聞き従うかどうかが試されています。

 

 信仰者の周囲には、試みのための苦しめる者も置かれていることでしょう。

 神は、悪と戦って悪魔の攻撃にひるまず、神の道を選んで義を勝ち取り、信仰の勝利を得ることを、期待しておられることでしょう。