「刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは(種を)蒔く者と(収穫の実を)刈る者がともに喜ぶためです。(福音の種を蒔く者もいれば、福音を信じて永遠のいのちを得る魂を刈り取る人もいます)
こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。(山に植林する人の子孫、孫かひ孫が木を出荷するように、天の倉に納められる実は、種を蒔く人の世代に実が刈り取られるのではなく、時間がかかって成長し、やがて実を結び、実が育って熟すると、別の人が刈り取るというように、随分と時間がかかることのようです。ミニトマトの苗を植えて花が咲き実がなると、その緑色の実が赤く熟して食べ頃の収穫の日まで一カ月以上待たなければなりません。丸い実がついて喜んでも、なかなか赤くならないのが現状です。成長が止まってしまったのではないのかと、ミニトマトのことをよく知らないうちは、ひやひやしたり、なかばあきらめたりもしました。しかし、ちゃんと赤くなります。緑色から徐々に赤くなるというよりも、少し黄色っぽくなったかなと思った翌日くらいに赤みが差して、成長が急に進みます。花から丸い実になるまでも時間がかかり、丸い実が少しずつ大きな緑色の実になり、そこからまた赤くなるまでに時間がかかります。しかし、ひとつふたつ赤くなると、翌日からは毎日赤い実の収穫ができるようになります。本当に、時間がかかります)
わたし(キリスト)は、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。(人の救いは自分ひとりの力ではないのです。その人の家族の祈り、先祖の祈り、教会の祈り、その人の救いを執り成す人々の祈り、福音の言葉を知らせた人々の働き、ひとりの人の救いに多くの人々の祈りや福音宣教が関わっているのです)
ほかの人が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。(山に植林した先祖は、自分の世代には収入にならない苗木を植える働きを、子孫のためにしてくれていたのです)」(ヨハネ4:36ー38)
天で喜ばれる永遠に残る実があります。御霊の実です。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
肉の性質が、御霊の性質に新しく造り変えられたことを証する、神の子どもの性質の「実」です。
神のひとり子は、天における輝かしい神の御子の御姿を捨てて、人間と同じ肉のからだの「人の子」として、地上に来られました。
神の御子イエスは、神がお造りになった神の祭司の国民ユダヤ人として、遣わされました。神の祭司の国民ユダヤ人の手で屠られる神の子羊として来られたのです。
神の子羊イエスは、ご自分の肉のからだを罪の生贄としてささげられました。十字架は罪の呪いの木です。木にかけられた者は、神に呪われた者です。
神のひとり子は、神に呪われた者として、私たちのために十字架にかかり、死んでくださいました。神の子羊イエスの死は、私たちの死です。私たちひとりひとりは、十字架につけられるはずの死刑囚でした。しかし、神の子羊イエスの血が神に受け入れられて、私たちの罪を贖ってくださったのです。
私たちの罪の呪いは、神の子羊イエスが身代わりとなって受けてくださいました。
神は、刑罰は終わったことを告げられます。神の子羊を信じ、キリストの十字架は私の罪のためであったと告白し、自分の罪を悔改めて、「神の子羊イエスは私の救い主、神の御子キリストです。」と告白するならば、神は、その人を義とされます。
その人の罪は、神の御子イエス・キリストが身代わってすでに処罰されたからです。
「(神の御子イエス・キリストを信じる)私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(神の愛と憐みと恵みとは、測り知れません)
神はこの恵み(罪の赦しと御救いの恵み)を私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と悟りを私たちに賜わり、御旨の奥義を、みずからあらかじめ定められた御計画に従って、私たちに示してくださったのです。(神は、神の子羊イエス・キリストによる御救いの御計画を知らせてくださいました)
それは、時の満ちるに及んで実現される御計画(千年王国の実現)にほかなりません。それ(人間の支配する世界を終わらせ、神の御子イエス・キリストが天から来られて治める千年王国の世界)によって、神は天にあるもの地にあるもの(全宇宙にある魂)を、ことごとく、キリストにあって一つに集めようとされたのです。」(エペソ1:7-10)
私たちは、キリストにあって、御国を受け継ぐ者となりました。
私たちは、御心により御計画のままをみな実現される方(天地を治め、御自分の御心のままに御計画を成し遂げられる絶対的主権者であられる、永遠に生きておられる天の神)の目的に従って、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれていたのです。
「それは、早くからキリストに望みをおいている私たち(キリストを待ち望んでいたユダヤ人)が、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
またあなたがた(キリストを信じた異邦人)も、キリストにあって、真理のことば、すなわち、あなたがたの救いの福音(永遠のいのちを得させる神の御子イエス・キリストの福音)を聞き、またそれ(良き知らせ)を信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(聖霊のバプテスマを授けられたのです)
この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。
これ(御霊のしるし、心の割礼)は神の民の贖い(心の割礼のある御霊の器が、御霊を持たない人々とともに滅びないためです。救いのしるしです)のためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:12-14)
さて、御霊は救いのしるしです。御霊が宿る人のしるしは、肉の人から御霊の人に生まれ変わることです。それは、神の栄光です。
イエスは言われました。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしに留まり、わたしもその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます、
わたし(肉に死に、死から甦った復活のキリスト、御霊によって生きる新しい人の子)を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(キリストの御霊の力によらなければ、永遠に残る御霊の実を結ぶことはできません。人間の力では御霊の実を結ぶことはできないのです)
だれでも、もしわたしに留まっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。(たとい、御霊のしるしを持ち、御救いのしるしを持っていても、復活したキリストの新しいからだ〈御霊のからだ〉に繋がらなければ、復活のいのちは流れて来ません。いのちのない枝は、枯れます)
人々はそれ(枯れ枝)を寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(肉の力で信仰を全うしようとする者は、神の栄光をほめたたえる者の道から迷い出て、キリストの贖いの血をないがしろにするのです)」(ヨハネ15:5,6)
私は畑でミニトマトの収穫の時期が過ぎても肥料をやって育てていました。根に近い枝から根が出始めたので、その枝に土をかぶせてました。
ほとんど花がつかなくなっていたのに、また花をつけ始めました。実を結ぶものもあらわれました。
しかし、ある日、身をかがめてその木を世話している私に、主が語られました。
「愚かであってはならない。」
その神の語りかけによって、「実」が目的であることを知りました。木を育てることが目的ではなく、実を結ばせること、成熟した実の収穫が、神の国の目的であることを知らされたのです。
枝が立派にならなくてもよいのです。実を結ばせる枝であることが大切なのです。
「イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:18,19)
いちじくの木は、花芽もなかったのです。実を結ぶ気配がありません。イエスは、実を結ばない木として、その木を呪われました。
イエスはたとえを話されました。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これ(実を結ばないこのいちじくの木)を切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、今年一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:6-9)
神は、実をつけ、熟すことを望んでおられます。
神は、信仰の実の収穫を待ち望んでおられるのでしょう。