ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の実をみのらせる御霊の教会

 

 「私(パウロ)は言います。御霊(死から復活したキリストが与えるキリストの御霊、すなわち、生かす御霊)によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。(自分の努力によってきよい人になろうとしても、死の恐怖を克服することはできません。肉の人である自分の霊によっては、きよくなれないからです。死に勝利して甦られたキリストの御霊によらなければ、新しい人に生まれ変わることはできません。肉は肉なのです。しかし、御霊によって生まれた者は御霊です。御霊が望むのは、神の栄光です。神の栄光を求める御霊は、肉の欲望を満足させることなく、神の望みに沿うのです)

 なぜなら、肉(生まれつきの自分)の願うことは御霊(神の霊)に逆らい、御霊(永遠のいのち)は肉(永遠の死)に逆らうからです。

 この二つ(御霊と肉)は互いに対立していて、そのためあなたがた(御霊を受けた肉なる人たち)は、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

 しかし、(自分の肉の思いを殺し)御霊によって導かれるなら、あなたがたは、律法の下にはいません。(律法の奴隷ではありません。神の子どもです)

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。

 不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

 前にもあらかじめ言ったように、私(パウロ)は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなこと(御霊に逆らう肉の行ない)をしている者たちが神の国を相続することはありません。(神の契約の民ユダヤ人であっても、神の御子キリストの契約の民キリスト者であっても、御霊に逆らう人々は、神の国を相続することはありません)

 しかし、御霊の実(御霊によって造り変えられた新しい人の新しい性質)は、(キリストに似たものに造り変えられ)愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなもの(御霊の実)を禁ずる律法はありません。

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉(肉の欲望を満足させる生き方)を、さまざまの情欲や欲望とともに、(キリストの)十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:16-24)

 

 パウロは言います。

 「私はキリストとともに〈罪を処罰するキリストの〉十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、〈私はキリストとともに十字架につけられたので、十字架で私の肉は死に、聖霊によって死から甦られたキリストのいのちの中にいます。すなわち、キリストともに肉に死んで、御霊によって新しく生まれ、新生した新しい創造の人、御霊の人に生まれ変わっているので〉キリストが私のうちに生きておられるのです。

 いま私〈パウロ〉が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子〈イエス・キリスト〉を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 

 「(御国の子どもとして召されている)私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。(私たちは、キリストがそうであったように、神の栄光のために、また、神の御国のために存在しています)

 ですから、生きるにしても、死ぬにしても、(御霊とともに歩む)私たちは、主のものです。

 キリストは、死んだ人(死によって神の栄光を現わす人)にとっても、生きている人(生きていて神の栄光を現わす人)にとっても、その主(彼らの主)となるために、死んで、また生きられたのです。

 それなのに、なぜ、あなたは(主にある)自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟(御霊とともに歩む兄弟)を侮るのですか。

 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」(ローマ14:7-10)

 

 御霊の実は、御霊によって生まれ成長します。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の性質は、御霊によって、かたち造られます。

 肉を砕く工事がなされます。痛みと嘆きと悔い改めにより、また、大切な物が取り去られる悲しみと失望により、肉の欲求は殺されて魂の畑地は更地にされます。

 そして、蒔かれたいのちの種を育て、永遠のいのちに至らせる御霊の実を結ぶ木を生じさせて、御霊の実を結ぶ者として、新しい創造を受けるのです。

 

 御霊の実は、ぶどうの房のように、ともに育つもののようです。一つ一つの実のようであって、それらの実はともに連携して成長しています。

 イエスは言われました。

 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら(すなわち、キリストの御霊を受けて御霊とともに歩むなら)、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)

 

 御霊の教会は、キリスト教会だけのものではありません。

 神道からも仏教からもユダヤ教からもほかの宗教からも無宗教からも集められます。

 宗教ではなく、霊とまことの信仰の霊的な教会なのです。神は霊であって、霊なる神を霊とまことによって礼拝する、新しい人たちです。霊が神に繋がっている人たちです。

 

 35年以上前に見た夢を思い出します。

 伝統的な大きな立派な木造の教会が、地が大きく揺れて、一瞬で崩落しました。無残にも屋根も壁も柱も粉々になっています。

 その大きな木造の建物の中から、白い小さなガッシリとした建物が現われました。その白い建物は、地震にビクともせずに建っていたのでした。

 

 それを見た私は、夢の中でこう思っていました。

 「あ~ぁ、教会が跡形もなく、崩れ去ってしまった。しかし、あの小さな四角い白い建物は、いつの間に建っていたのだろう。大きな木造の教会の中に、だれがいつ建てたのだろう。あの激しい揺れの中でもビクともしない、なんて頑丈な建物だろう。教会の中に人知れず建っていた白い頑丈なあの建物も、教会なのだろうか。」

 

 今になって見れば、わかります。激しい揺れの中でも建ち続けたあの白い頑丈な建物は、御霊の教会であったことに、気づくのです。

 キリスト教会の中に、御霊が密かに建てている、目に見えない御霊の教会。

 

 このように、世の終わりには、仏教の建物の中にも、古神道の建物の中にも、日本神道の建物の中にも、ユダヤ教の建物の中にも、そのほかの宗教の建物の中にも、また、無宗教の人々の中にも、目に見えない御霊の教会が造られているのでしょう。

 

 生けるまことの神の霊とともに歩む真実な心の人々です。神を恐れ、神にへりくだり、神に仕える、きよい魂の人たちです。

 生けるまことの神のひとり子(天の御国の王子)にふさわしい人たちを、父なる神は、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の中から、また、あらゆる宗教の中から、けがれのない、正しい信仰心を持つ人たちを、また、御霊の実を結ぶ聖なる人たちを呼び集められるのでしょう。

 

  彼らは、試みの時にも信仰を手放さない信仰の勝利者、残りの人たちです。