「父(なる神)は御心のままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。(神は約束のことば、すなわち、イスラエルにキリストを遣わす事、ユダヤ人から出る「人の子」(神の御子イエス)は世の罪を取り除く神の子羊である事、キリストは聖霊のバプテスマを授ける贖い主である事、キリストは一度死んでも甦り永遠に生きる方である事、神は神の御子イエス・キリストを信じる人にもうひとりの助け主「真理の御霊」を遣わされる事など。イエスの弟子たちは神の約束どおり「真理の御霊」を受け、御霊によって新しい創造を受ける新しい人とされました。御霊によって生まれた初穂は、死から甦られた神の子羊イエスですが、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリスト・イエスによって御霊を授けられて御霊により新しく生まれた被造物の初穂は、イエスの弟子たちであり、私たちキリスト者です)
愛する(主にある)兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたし(主)のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。もしあなたの敵が飢えてたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むこと〈相手に善意をもって接することで相手の心に良心の呵責や悔い改めを生じさせること〉になるのです。悪に負けてはいけません。〈感情に振り回されて自分で復讐することによって神に罪を犯してはなりません。神の怒りに任せなさい〉かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」[ローマ12:19ー21])
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたの魂を救うことができます。(神の道を外さないように守ってくれます)
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ(みことば)を聞くだけの者であってはいけません。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。(文字の律法は、生きて働いて私たちを導いてくれるわけではありません)
ところが、完全な律法(心の割礼による御霊の律法)、すなわち自由の律法(イエスのことばを思い起こさせ真理を教えて正しい道へと導く御霊の導き。御霊はうちに住まわれ、御霊の人は「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞いて歩む。一人一人に合った導きをその都度語りかけてくださる御霊、いのちの教師)を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。
こういう人は、その行ない(御霊に聞き従うこと)によって祝福されます。
自分は宗教に熱心であると思っていても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:18-27)
口語訳によると、
「もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば(自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず〈心にもないことを言い〉、自分の心を欺くならば)、その人の信心はむなしいものである。(口で言いながら実行の伴わない信仰、また、みことばを守ることを望みながら世に流されるあり方は信仰の欺きであり、そのような信心は神の御前で覚えられることはありません)
父なる神の御前に清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自ら世の汚れに染まらずに、身を清く保つことにほかならない。(みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です)」(ヤコブ1:26,27)
イエス・キリストを「主」と告白する御霊の人は、被造物の初穂です。
「永遠に生きる新しい人」の初穂である「神の子羊イエス・キリスト」を頭とする、新しく創造される被造物の初穂です。
肉の人ではありません。一度死んでも死から甦る御霊の人です。
神の契約を持つユダヤ人たちの中から、最初生まれました。イエスの弟子たちです。
イエスの弟子たちの宣教により、全世界に、復活のキリストの福音は届けられました。
初めはガリラヤ地方の漁師たちの群れでした。イエスとともに歩んだ使徒たちです。
キリストは天に上ると、父なる神から聖霊のバプテスマを授ける権威を受けて、地上の弟子たちに、聖霊のバプテスマを授けました。
そして、聖霊を受けた弟子たちによって、ユダヤ人たちの中にも聖霊のバプテスマを受ける新しい弟子たちが起こりました。
キリストの福音を託された弟子たちは、アジアに宣教しました。そして、ユダヤ人から受け継いだ良き知らせを、異邦人の弟子たちが宣べ伝えました。
福音は、全世界に宣べ伝えられました。
キリスト者たちは、聖霊のバプテスマを受けて、キリストのからだに繋がります。
キリストのからだの頭は、死から甦られた神の子羊イエス・キリストです。聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を持つ「救い主イエス・キリスト」です。
聖霊は、父なる神が信者に遣わされる「真理の御霊」です。
贖い主イエス・キリストの血により罪が贖われ、神に義とされた弟子たちに遣わされる「もうひとりの助け主」です。
聖霊のバプテスマを受けた人のうちには、キリストを死から甦らせた聖霊、すなわち、新しいいのちで復活したキリストの「生かす御霊」が宿られます。
肉なるイエスは死にました。しかし、聖霊は死から新しいいのちを生みました。その新しいいのちは、キリストの生かす御霊です。キリストの御霊は、肉に死んだ魂を死から甦らせて、新しい復活のからだと永遠のいのちを得させる、死に勝利する「生かす御霊」です。
キリスト者は、この生かす御霊を受け、御霊によって真理を教えられ、イエスのことばを思い起こさせられながら、御霊とともに歩むことで、新しい人に造り変えられます。
父なる神は、御心のままに、真理のことば(弟子たちの救いの福音を聞き、それを信じたことによって、信じる人々に御国を受け継ぐことの保証であられる聖霊を授け御国の子どもの証印を押される約束)をもって私たちをお生みになりました。
私たちを、いわば新しい被造物の初穂にするためです。
「イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。」(エレミヤ2:3)
神は、イスラエルにキリストを遣わし、新しい人の初穂をお生みになりました。
それは、第二のアダムである神の子羊イエス・キリストです。肉のアダムではありません。一度死んでも死から甦る御霊の新しい人です。永遠に生きる新しい創造です。
イエスの弟子であるユダヤ人たちは、御霊によって、第二のアダム(新しい人の子、神の子ども)として生まれ変わりました。
世界中のキリスト者たちのうち、御霊によって新しく生まれた御霊の人たちは、キリストが創造する新しい被造物の初穂なのです。
「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。」(ローマ11:16)
終わりの時代に、世に聖霊が注がれると、仏教からも、古神道からも、日本神道からも、ユダヤ教からも、そのほかの宗教からも、無宗教の人たちからも、御霊の人が生まれることでしょう。
私たちキリスト者が、新しい被造物の聖なる初穂であるならば、すべての被造物は聖いとされるのです。