「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、止められた。
そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。
水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現われた。」(創世記8:1-5)
自然界のもの、水も風も、神の御意志によって自由に操られます。
出エジプトの時には、イスラエルの目の前に広がる紅海に、強い風を吹きつけて、陸地を現わし、紅海の中に、水を右と左に分けて水の壁をつくり、乾いた道を設けられた主です。
風は、神の御意志で、神の御心のままに、神が命じられるところを吹き抜けていきます。その風の速さも、大きさも、強さも、御心次第です。
地上のすべての山々を呑み込み、地球全体を覆い尽くした水の層。しかし、神がその表面に風を吹き過ぎさせると、水は、しだいに引いて行きました。百五十日間、地の上に増え続けた水は、百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、アララテの山の上に留まりました。
第二の月の十七日に、降り始め四十日四十夜、地の上に降った大雨。
第七の月の十七日に、アララテの山の上に留まり、水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れました。
平地は、まだまだ大水の底です。
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、からすを放った。するとそれは、水が地から乾き切るまで、出たり、戻ったりしていた。
また、彼(ノア)は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。
鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のところに入れた。
それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの木の若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上から乾き始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は乾いていた。
第二の月の二十七日、地は乾き切った。
そこで、神はノアに告げて仰せられた。
『あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。』」(創世記8:6-16)
箱舟の中にいたノアは、箱舟がアララテの山の上に留まると、水に浮かんでいた箱舟が一つ所に留まったことを知ったでしょう。
水は引き始めていたのです。もはや、箱舟は、水の上を漂う船ではなく、地上に留まる救いの家でした。
神が忌み嫌われた、罪に満ちた地上のあらゆるものは、大水で押し流されました。
アララテの山の上に留まった箱舟の中にいる生き物だけが生き残ったのです。
ノアは、箱舟の外の状況を知ろうと、からすを放ちました。からすは、水が地から乾き切るまで、出たり、戻ったりしていました。からすは、自分の思いのまま、出たり戻ったりしていました。ノアの所に帰るでもなく、また、離れるでもなく、箱舟に戻りました。
ノアは、水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放ちました。すると、鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来ました。ノアは手を差し伸べて鳩を、箱舟の自分のところに入れました。ノアは、水が引いていない事を知りました。
それからなお七日してから、再び鳩を箱舟から放つと、鳩は夕方になって、ノアのもとに帰って来ました。くちばしには、むしり取ったばかりのオリーブの若葉があるではありませんか。ノアは、地から水が引き、植物が生えていることを知りました。箱舟の外には、乾いた地が広がっていることでしょう。
それからなお、七日待って、ノアは鳩を放ちました。鳩はもう戻って来ませんでした。鳩が暮らせる世界が、箱舟の外には広がっているからです。
からすは、ノアの使いとして偵察する意味を悟りませんでした。
神から使命を受けていながら、神の御旨をとらえることのできない聖書の民のようです。
ユダヤ人は、天地万物を造られた全能の神、主から聖書をゆだねられた民です。
文字の律法に仕える民です。律法の知識を持ち、律法によって神を知っていますが、神の御旨をとらえることに鈍い民です。
旧約聖書に書かれた詩篇や預言者は、実に、イスラエルに遣わされるキリストを証する内容です。また、ユダヤ人たちが望みを置いているモーセの「私(モーセ)のような神に遣わされるひとりの預言者(イスラエル全体を救うために神が遣わされる救い主)に聞き従わなければならない。」という命令を知りながら、その大切な命令を守ることのできない、真理を悟るのに鈍い民です。
聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べているのに、モーセの命じた「イスラエルが聞き従わなければならない、モーセのようなひとりの預言者」が、だれであるのかを見分ける霊的能力に乏しい民です。彼らの霊の耳は遠く、その目は閉じ、真理を悟る心の鈍い民です。
なぜならば、彼らは、霊なる神に仕えながら、文字の律法に縛られた律法の奴隷となっているからです。
彼らは、神から送られた手紙(聖書)を大切に保管し、何度も何度も読み返し、暗記していました。彼らには、知識は十分にあったのです。
モーセがイスラエルに命じておいた「モーセのような、イスラエルを神の民の道へと導く預言者、キリスト」は、文字ではありません。神のことばを発せられる生きた「人の子」です。人の姿かたちをしていますが、イスラエルを死と滅びから救い出し、神の国へと導く神のひとり子です。
イスラエルが大切にして来た神の手紙(聖書)の差し出し人である、神の御子が目の前に来られたのに、イスラエルは目の前の「人の子」(神の御子イエス)のことばではなく、自分たちの手の中にある古びた聖書の文字を目で追っているのです。
そして、私的解釈して、目の前のイエスを、聖書のことばにある預言者ではない、と決めつけました。ナザレのイエスは、モーセが命じた預言者であるはずがありません。
永遠のいのちは、聖書の中にありました。その永遠のいのちが、人の子の姿となって、イスラエルに来られたのです。
しかし、神の御旨を悟らないイスラエルは、永遠のいのちを与える預言者(神の御子イエス・キリスト)を、「神の子」と自称して神を冒瀆する呪われた罪人として、十字架につけて処刑しました。
イスラエルが待ち望んだキリストは、イスラエルが十字架につけてののしり殺したナザレのイエスだったのです。
イスラエルの神が、イスラエルを救うために、イスラエルに遣わされたキリストは、神のことばを語る神のひとり子でした。姿かたちは、ナザレのイエスですが、彼こそが、聖書の神が、イスラエルのために遣わされたダビデの町ベツレヘムで生まれた救い主、「主キリスト」でした。
主キリストは、永遠のいのちを得させるために、ご自分の血で罪を贖い、罪を言い表わして罪が赦され神に義とされる人々に、聖霊を授けられます。
聖霊が、永遠のいのちのしるしです。多くの人は、「聖書」の中に永遠のいのちがあると思って調べています。
しかし、永遠のいのちは、文字にはありません。「聖書」に書かれた主キリストにあるのです。聖書を信じて律法を守っていても、主キリストに聞き従わなければ、永遠のいのちを得ることはできません。
ノアが箱舟から放った鳩は、御霊の象徴です。聖霊を受ける人は、神の御旨を悟るのです。からすのように、自分の思いのまま、箱舟を出たり戻ったりはしません。
遣わしたノアのもとに帰って来ます。そして、ノアが知りたい情報を届けます。鳩は、くちばしでオリーブの若葉をむしり取って、ノアのところに運んで来ました。
鳩は、自分が成すべきことを知っています。
キリストを信じる民であっても、聖霊を受けていない人は、ユダヤ人と同じ過ちをしています。キリスト者は、聖書の民と自負するユダヤ人が、聖書に書かれたキリストを信じない事を、何故だと不思議に思います。
しかし、聖霊を受けるキリスト者たちは、聖霊を受けないキリスト者たちを、永遠のいのちのしるしのない人として神の御旨にかなっていないことを恐れます。
文字の律法は、自由を与えません。
自由の律法は、文字を超越します。生きた神の御霊の導きは、永遠のいのちを得させる「いのちの道」へと導くからです。
今夜、12月22日0:03は、冬至点で、この時刻(またこの前後を含めての時間)に心に思い描く祈りは、天に届く祈りと言われているそうです。
クリスチャンでなくても、そのようです。
今日、幻で、日本列島の上空に年を経た方(神?神の御使い?)が立っておられるのを見ました。
日本列島で祈られる、魂の思いを聞き届けるために待機しておられるようです。
神は、祝福しようと、待っておられるようです。