ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

滅びを免れるために

 

 「(私たちを御自身の栄光と徳〈いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに教えてくださる聖霊の器〉へとお召しになった方〈天地万物を造られた全能の神、すなわち、イエス・キリストの父であられる神〉の)その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束(永遠のいのち)が私たちに与えられました。

 それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神の(ひとり子イエス・キリストの)ご性質にあずかる者となるためです。

 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(目に見えない生けるまことの神を信じるあなたがたの信仰、誠実や寛容などの徳を積む豊かな心、神を知る知識、知識によって高ぶることのない謙虚さ、信仰ゆえに受ける様々な試練によって培われる神への信頼と耐え忍ぶ力、神を畏れへりくだる心、ほかの人を自分のように愛する汚れのない隣人愛、変わらない神への感謝と忠実な愛)

 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。(神の御霊が信仰から信仰へと成長させて私たちを変えてくださいます)

 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって(霊の目が閉ざされていて)、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。(私たちは良い者だから救いにあずかったのではありません。キリストに出会う前は、世の人々と同じ罪の中にいたではありませんか)

 ですから、(主にある)兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。(キリストによって罪が贖われ、御霊によって永遠のいのちの約束を得ているのです。キリストを離れ、御霊を失うならば、私たちにいのちが留まることはありません。それゆえ、信仰のうちにしっかりと立ち、信仰に留まりなさい)

 これらのことを行なっていれば(御救いを感謝し、キリストのご性質にあずかるよう努力して、御霊とともに歩むなら)つまずくことなど決してありません。

 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。

 ですから、すでにこれらのこと(真理)を知っており、現に(信仰によって心のうちに)持っている真理(神のことば)に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私(ペテロ)はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。

 私(ペテロ)が地上の幕屋(肉体の中)にいる間は(生きている間は)、これらのこと(いのちの道を歩む歩み)を思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。 

 それは、私たちの主イエス・キリストも、私(ペテロ)にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが(ペテロのいのちが取り去られる時が)間近に迫っているのを知っているからです。(エリヤも、自分が地上を去る時を知っていました。エリシャは、エリヤが天に引き上げられることを知っていました。このように、その時には、天に上げられる魂は、時を知らされるのではないかと思います)

 また、私(御霊とともに歩み真理を教えていたペテロ)の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」(ペテロ第二1:4-15)

 

 ペテロの福音は、復活のキリストを証言する良き知らせであり、また、人々が滅びを免れるための福音です。

 ペテロは、自分の死期が近づいたことを知り、もはや、語る機会がなくなることを知って、信者たちに、滅びを免れる信仰を持ち続けるようにと、奨励しました。

 

 イエスを知る生きた証人である使徒たちもまた、次々と世を去ります。すると、キリストとともに歩んだ弟子たちの証言を聞く機会は途絶えます。

 しかし、私たちには、聖書があります。

 ペテロは、変貌山で、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合うのを目撃した使徒のひとりです。イエスのことばや奇蹟、また、不思議としるしを自分の目で目撃し体験した弟子たちにとって、預言のことばは、信仰ではなく確実なことばなのです。

 

 「私たちは、さらに確かな預言のみことば(使徒たちの体験を記した「新約聖書」)を持っています。

 夜明けとなって(異邦人の時が完成し、ユダヤ人の時となって)、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは(ふたりの証人が現われ、真理の道を示してくれるときまでは)、暗い所を照らすともしびとして(いのちの道を見い出す足のともしびとして新約聖書のみことばを読み)、それ(新約聖書のみことば)に目を留めているとよいのです。」(ペテロ第二1:19)

 

 新約聖書の約束を心に据えて、イエスのことばにより頼むことは、いのちの道から外れることはありません。信仰によって神と結ばれていれば、つまずくことから守られます。

 

 ふたりの証人、また、十四万四千人のユダヤ人の世界宣教が始まれば、新約時代の使徒たちがイエスのことばを聞き、自分の目でイエスの奇蹟を見たように、そのように、彼ら(神が遣わされるふたりの証人と十四万四千人のユダヤ人の宣教)を通して、真理のことばを聞き、真理の御霊の奇蹟と不思議を体験するようになるのです。

 

 しかし、その時が訪れるまでは、新約聖書のみことばを読み、新約聖書の約束に目を留めているとよいのです。

 

 アクロバット飛行のパイロットの言葉が思い浮かびました。

 ぐるぐる回転したら、目が回るのではないか、と尋ねられたとき、「一点を見るようにしています。一点を見ているので、目が回ることはありません。しっかりと状況を把握することができます。」と答えました。

 

 一点を見つめる。イエスのことばから、新約聖書の約束から、イエス・キリストご自身から、また、生けるまことの神への信仰から目を離さないことは、自分の思いがどこかに飛んで行ってしまうことから守られるのでしょう。

 

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)

 

 信仰の創始者は、自分に福音を届けてくれた人ではありません。教会の兄弟姉妹、牧師ではありません。

 死から甦って、永遠のいのちの御霊のからだで甦られた神の御子イエス・キリストです。キリストの御霊を分け与えて、信じる私たちに永遠のいのちを得させてくださる神の子羊イエス・キリストです。

 

 キリストは、すでに完成しておられます。御霊のものを受けて、永遠に生きる御霊のからだで、聖霊のバプテスマを授ける権威を持って、御座におられる父なる神の右の座に着座しておられるのです。

 

 十字架の死まで従い、霊の目が閉じ真理の光の見えない闇の子たちの反抗を忍び、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたイエス・キリストのことを考えましょう。

 私たちは、キリストの真実な愛に慰められ、また、偲ばれたイエス・キリストの慰めに満ちた癒しと安らぎを受けましょう。

 それは、私たちの心が信仰に伴う苦しみによって元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。