もし自分は清廉潔白だ、神の御前で悔い改める罪は無い、キリストの贖いの血が何になるだろうと考える者は、自分自身を欺く者であり、自分を御救いから遠ざけています。その人は、偽りを信じており、永遠の昔から存在しておられる霊なる神を否定する者で、真理はその人のうちにありません。
もし、罪を犯していないと言うなら、何故、人は死ぬのでしょう。
死は、罪の報いだと真理は言います。このことは、真理を信じる人だけに起こる出来事ではありません。真理を信じない人も、真理を持っていない人も例外なく死んでゆくのです。
すると、人はみな、罪の中にあるということができます。罪のゆえに死んで行くのですから。
死にゆく魂の罪を贖い、私たちの罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる、神の御子イエス・キリストを信じる私たちは、神を偽ることができません。
もし、人は罪を犯していないということが事実ならば、世の罪を贖う神の子羊イエス・キリストを遣わしてくださった神を信じる私たちは、神を偽り者とするのです。
罪を贖う必要のない世に、神の子羊は必要ありません。神の子羊イエスの血は何の益ももたらさないことになります。
罪がないならば、罪を贖う神の子羊イエスの血の力を主張する私たちは、偽りの神を信じていることになります。
私たちが神のみことばであると信じている聖書は、神のものではなかった、真理ではない、ということになるのです。
しかし、人類の死の原因を知らせる聖書にはこのように書いてあります。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)
人が死ぬことは、人類にとって、事実のことです。だれも否定できません。
この死の縄目から解放されるためには、死の原因である罪を取り除かなければなりません。
罪がないと言い張るのは、罪の結果です。悪にまみれて、本来の正常な状態がわからなくなっているのです。
死は、いのちと分かたれます。人はいのちの根源(神)からいのちを得ています。いのちの根源から外れた状態が、死です。
いのちの根源(神)から外れている要因、また、死の原因は罪です。罪の報酬が死だからです。
神は、死の原因の罪を取り除き、再び、いのちの根源に繋ぎ直して、いのちを得させようとして、神の子羊イエスを遣わされました。
いのちに対して、すべての人が罪を犯しているからです。
人は、一人ひとり、どの人も、死に定められた罪を持っているということです。
いのちは、いのちの根源に繋がって、初めて死から解放されます。それは、精神的な勝利ではありません。信仰の勝利です。
神は、人を造られた創造主であられ、人の罪をきよめる贖い主であられ、罪を赦して義とした人に御救いの信仰を与える救い主であられ、新しい心と新しい創造を与える真理の御霊であられます。
人は、いのちの根源から外れているのです。
それゆえ、寿命があり、やがて老いて死んで、肉体は土に還り、魂はもとの状態に戻ります。もとの状態とは、いのちの根源から外れている状態、すなわち、エデンの園から追放されたアダムに帰って行きます。
アダムは、罪の報酬である死を受けています。
神は、死んだアダムに、生きることを望まれます。それで、神は、神のひとり子に肉体を造って、もうひとりのアダムとして地上に遣わされました。
アダムは、神の命令にそむき、いのちの根源と切り離されました。
しかし、もうひとりのアダムとして来られた神の御子イエスは、神のことばと一つです。アダムと同じような姿かたちをしていますが、神の御子イエスは神に聞き従う信仰を持っています。
神の御子イエスは、善悪を知る知識の木の実を食べる以前の、アダムのようです。神の命令に忠実であり、神のことばとともにありました。
神のひとり子は、エデンの園で、神のことばとして存在しておられました。それゆえ、神の御子イエスは神のことばでもあるのです。もし、神のことばから外れるならば、神のことばが神のことばではなくなります。
神の御子イエスは、肉体を持たれた後も、神のことばとして歩まれました。決して、肉の欲に従うことはありませんでした。
神が造られたもうひとりのアダム(神がひとり子に肉体を造られてユダヤ人の処女から生まれた神の御子ナザレのイエス)は、「われわれ(父なる神、子なる神、聖霊)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)と仰せられて造られた後、神がご覧になられて非常に良かったというアダムの姿でした。
アダムとエバの子、カインが弟のアベルを殺して、アダムがふたりの子を失うと、神は、エバにもうひとりの男の子を授けられました。
それは、アダムに似た、アダムのかたちどおりの子、セツです。
セツの子孫に、神とともに歩み神に喜ばれたエノクが生まれ、エノクの子孫に、神を神としない暴虐で満ちた世にあっても神とともに歩む正しい人ノアが生まれました。
ノアは、世の滅びの時に、箱舟にはいって大水の滅びから救い出されました。ノアの三人の息子セム(黄色人種の祖)、ハム(黒人の祖)、ヤペテ(白人の祖)のうち、神はセムにノアの信仰を置かれました。
セムの子孫にアブラハムが生まれ、アブラハムにユダヤ民族イスラエルが生まれました。そして、神は、イスラエルを、御自分に仕える神の祭司の国民とし、御自身を「イスラエルの神」と名乗られました。
このイスラエルに、神は、神のひとり子イエス・キリストを遣わされたのです。
神は、アダムに似た、アダムのかたちどおりの子セツを、アダムにお与えになりました。
神に似せてアダムを造られた神は、アダムの子孫セツからアブラハムを生み、アブラハムからユダヤ民族を生み、ユダヤ民族の中から、神の御子イエス・キリストを生み、傷のないもうひとりのアダムをアブラハムに与えられました。
神は、神が遣わされた神の御子ナザレのイエスに、キリストの権威を授けられました。死者を死から甦らせ、死から救い出す救い主、魂を贖い、魂を救うキリストの権威を授けられたのです。
キリストは、いのちの根源から外れて死ぬ者となった人類に、罪の生贄の子羊として、ご自分のいのちをお与えになりました。
罪を贖うための神の子羊は、神御自身が用意されました。
罪の呪いの十字架で流された神の子羊イエスの血は、罪の贖いの子羊の血です。
子羊イエスの血は、罪を赦し、死に定められている魂をすべての悪からきよめます。子羊の血によってきよいとされる魂は、神に義とされます。
私たちに罪はないという人々には、縁のない話ですが、もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
罪を認めることのできる人は幸いです。その人は神に近いのです。へりくだった魂は、自分のうちにある罪を知ると、悔いて、罪を神に言い表わします。すると、神は、言い表わした罪をすべて赦してくださるのです。
もうひとりのアダム、神に受け入れられる完全な人の子は、罪のないイエス・キリストです。この罪のない完全な人ナザレのイエスは、贖いのみわざを完成されました。
罪のない完全な人神の子羊イエスは、御霊によって死から甦り、新しい人(永遠のいのちと御霊のからだの神の子ども)の初穂となられました。
もうひとりのアダムナザレのイエスは、新しい人の初穂であり、また、新しい人を創造する真理の御霊を授けるキリストです。
私たちアダムの子孫は、もうひとりのアダムイエス・キリストにより受ける御霊によって、新しい創造を受けて、新しい人に造り変えられます。
いのちの根源から外れていた魂は、罪を悔改めて、神に立ち返って神の子羊を受け入れると、キリストの血により罪がきよめられて神に義とされ、キリストの御霊を受けて、新しい人(キリストに似た神の子ども)に造り変えられます。
死ぬべき人、肉のアダムが、キリストのいのちに繋がり、いのちの根源に帰る御霊の人に、変えられます。キリストの血は、罪をきよめて、神と和解する信仰を与えて、私たちに永遠のいのちを得させてくれるのです。
ヨハネは言います。
「初めからあったもの、私(使徒)たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば(肉体をもって来られた神のことば、すなわち、神の御子イエス)について、
―このいのち(人の子となって来られた神のひとり子イエス)が現われ、私たちはそれ(天に属する人)を見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのち(死から甦られたキリストのいのち)を伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのち(キリストを通して現わされた聖霊の力、また、神が私たちに遣わされるもうひとりの助け主、すなわち、キリストの御霊)です。―
私(使徒)たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、(この世の人のような交わりではなく、魂の交わりであり、いのちの根源と繋がるいのちの交わりであって)御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(御救いを受けた人々に、欠けのない、心から湧き上がる真実な喜びを体験させ、信仰の勝利者とするためです)
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。(不安や恐れや疑いは、神のものではありません。闇の中にいるのです。その感情は神とともにいないことを警告してくれます)」(ヨハネ第一1:1-5)
永遠のいのちを得る魂は、初めからあったもの、すなわち、神のことばとともに歩み、神の栄光と聖霊の喜びの中にはいって、いのちの根源に帰るのです。