私が高校生の時、姉の結婚とともに、家の中に居場所を失ってから、私は変わることのないものを求め始めました。
家の中に、義兄が入って来ると、両親は義兄に気を遣いました。家の中で立場の弱い存在となった私は、両親の愛も確かなものではないと感じたのです。
結婚して家を出る事を、暗に望まれることに、反発しました。そして、憎しみが膨れ上がると、私の中で暗い気持ちが留まり、この暗闇から救い出して欲しいと願うようになったのです。結婚イコール家を追い出されること、のような疎外感を感じて、私にとって結婚は、家族に捨てられるという印象のものとなったのです。
救いを求めて、「般若心経」を唱えていると、男の太く重々しい声で、私の心深くに飛び込んで来た言葉がありました。
「邪念を捨てろ。無心になれ。」
心が晴れて救われるためには、無心になることが大切なようです。無心になることを妨げているのが、自分の中にある諸々の思い、邪念です。
救われたいと思いながら、あれかこれかと思いをあさることが、救いに到達する無心の境地を妨げていたようです。
私は、精神的に八方塞がりな牢の中にいるような感覚に、そこから抜け出る道を捜して、対象のはっきりしないものにすがりました。
仏さま、観音さま、という言葉は知っていましたが、信仰の対象として知っていなかったのです。
それから、毎日、般若心経を唱えました。
そして、仏教の大学にはいると、知識として少しずつ知らなかった世界が開かれて行きます。しかし、心は満たされません。以前の真っ暗な精神は、少しうっすらとした暗がりになっていますが、もやもやしています。
救いを求めていた私は、真理を求めるようになりました。
姉夫婦の存在は、私は家に居てもらっては困る存在へと、両親の心を変えた、と思っていました。
だれよりも私を愛して守ってくれた母も、もう、私の砦ではありません。何と空虚な関係なのでしょう。愛がどこかへ飛んで行ってしまったようです。
両親の愛さえ、不確かなものです。親も人の子、自分自身を守りたいものなのです。
私は、変わることのない確かな愛を求め始めました。
変わらないもの、普遍のものとは何か、と考えたときに、真理とは何か、に思い至ったのです。
私は、仏教の教えの中に、真理を見つけることはできませんでした。
人として生きる正しい教えはあるけれども、私の腕をつかんでこっちが安全だ、ここに真の平和があり、だれにも奪われることのない確かな安息がある、と教えてくれる存在がいないのです。
人の努力と豊かな精神性はありますが、私が求めているものとは違います。私は、私をそのままで包み安らがせてくれる存在を求めていたのです。
キリスト教を知ってから、それが愛であることを知りました。私は、天よりも高く地よりも深く海よりも広い神の愛を求めていたのです。
愛という概念のないまま、真理を求め続けました。
哲学的な本は心を満足させますが、またすぐ飢え渇くのです。まるで食事のようです。朝ごはんを食べたのに、昼の時間になるとまたお腹がすく、というようなものでした。
心を満たすものは、不変の真理だと、思いました。どうしたら出会うのだろうか。どこへ行けば見つけることができるのだろうか。
日々の生活をしながら、その日その日の楽しみを味わいながらも、心の中では、真理への深い渇望があったのです。
本屋で、手に取った一冊の本、三浦綾子さんの「この土の器をも」。この本との出会いから、真理に辿り着く道が開かれました。
三浦綾子さんの本を、次から次へと読み進めて行きました。わたしの渇いた心は少しずつ潤いはじめ、この中に私の捜していたものがあるのではないかと思い始めました。
三浦綾子さんを訪ねて北海道の旭川に行きたいと思うようになりました。家族に反対されながら、相変わらず、三浦綾子さんの本を読み続けていました。すると、本の最後に、「あなたもキリスト教会に行ってみませんか。」と書いてありました。
キリスト教会へ行けば、三浦綾子さんの本に流れている、平安を伴う静かな喜びの実体に辿り着けるのか、と思いました。
北海道へ行くのを止めて、キリスト教会に行ってみることにしました。電話帳で捜して、キリスト教会に電話して、平日夜の聖書研究の学びに参加することにしました。
初めてキリスト教会の玄関に入る時、引き戸を開けると、心の中で「ただいま」という感覚を持ちました。不思議な感覚でした。初めてなのに、懐かしい。以前から居たような記憶と、現実が重なるような不思議な空気でした。
私がキリストに至る出発点は、真理を求めることでした。
そして、願いどおり、真理に辿り着きました。
キリスト教会には、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われるイエス・キリストがおられました。
自分自身が真理である、と言える人間はいるでしょうか。イエスは「わたしが真理です。」と言われるのです。
宗教では、教義に真理があると言うでしょう。
キリスト教も「聖書」の中に真理があると言います。
ユダヤ民族にゆだねられた聖書には、神のひとり子を遣わす天地万物を造られた全能の神、主が、そのひとり子について書いておられます。
モーセの律法にも、詩篇にも、預言書にも、事前告知がされています。
聖書に書かれた神の栄光を現わす神のひとり子は、十字架につけられた神の子羊ナザレのイエスであることが裏づけされているのです。
聖書には、教えだけではなく、人の子の姿で現われた救い主キリストの存在が明らかにされています。
私が求めていた真理は教えではありません。実在する人の子であり、永遠に生きるいのちのキリストだったのです。
霧がかかったような真理の実体は、イエス・キリストの存在によって晴れました。
私が求めていた真理は、人のぬくもりを持つ愛の存在でした。いのちのある存在です。
「わたしは、真理であり、いのちです。」と言われるイエス・キリストは、天に帰る道でした。
「わたし(神の子羊イエス・キリスト)を通してでなければ、だれひとり父(人を造られた創造主であられる霊の父、魂の父)のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
私たちは、目に見える現実の世界が、永遠に続く現実のように思っていますが、この現実の世界は真理ではありません。真理はかわらないもの、普遍のものです。しかし、現に目に見える現実の世界は、日々変化し、生まれては死んでいます。真理は、永遠に続くものです。
真理は、人を造られた創造主の存在を知らせます。人の罪を知らせます。生老病死の苦しみの原因は人の罪であることを知らせます。生老病死の苦しみからの解放(解脱)は、罪を取り除くことであることを知らせます。罪のない世界の安息を知らせます。
真理は、神であり、神の御子であり、聖霊であり、永遠のいのちであり、罪のない全き光であり、全き善であり、全き安息です。
全き光には、悪はありません。暗い所はないのです。神の善があるだけです。
人の子となられた真理(天から遣わされた神のひとり子イエス・キリスト)は、真理を教えました。
真理とは、父なる神であり、神のことばであり、聖霊【真理の御霊】であり、全き聖であり、全き光であり、永遠のいのちであり、天の御国です。
そして、その天の御国にはいる道は、父なる神に遣わされて天から来られた神の御子イエス・キリストのいのち、キリストの御霊なのです。
罪によってエデンの園を追放された人は、世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリストの流された、罪を贖う子羊の血を受けて、心も身もきよめられなくては、聖なる天の御国を見ることはできません。
また、キリストの御霊を受けて、永遠のいのちを得なければ、天の御国にはいることはできません。
キリストの血とキリストの御霊、実は、これらが、永遠の安息の地(天の御国)に入る道なのです。この道を通してでなければ、だれひとり創造主である霊の父のみもとに帰ることはできません。
真理は、天の御国にあり、天の御国に入ることが、真理を得たことになります。そして、天の御国はいる魂は、キリストのからだ、真理の一部となり、永遠に生きる神の子どもとされるのです。
仏教、古神道、神道、キリスト教、ユダヤ教、そのほかの宗教、無宗教、どこに属していても、真実な心で真理を求め続けるならば、必ず、光の中へと導かれて行くことでしょう。
私たちは、それぞれ、自分の属しているところにある真理の一部分しか知らないのです。しかし、その真理の先には、いのちの道に出会う恵みがあるのでしょう。
私は、キリスト教会の中に、目に見えない壁を感じました。魂に矛盾を感じているのに、教会の牧師や兄弟姉妹が白と言えば、白となってしまうという違和感です。
私は、主に祈りました。切に切に祈りました。
「主よ。みんなが白だと言っても、私には白に思えません。みんなが黒だと言っても、私には白に思えます。私は、私の魂を偽ることができません。
どうか、裸の王様の童話に出て来る、『王様は裸だ。』と叫んだ幼い男の子のように、正直でありますように。見えていない服を「すばらしい」とほめる大人のようではなく、見えないものは見えないと、自分に偽らずに正直でいさせてください。」
私は、真理を求めたのです。
神は、真理を学ばせ、真理を教えてくださいます。
そして、矛盾も疑いもなく、晴れ渡る自由を得させてくださいます。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)