イエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われました。
「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。(弟子たちはイエスの間近で、イエスに現れる神の栄光を、日々見ていました。イエスは、病を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、罪人の心に悔い改めと愛の慰めと罪の赦しの喜びと希望を与えました。多くの人は癒され、解放され、神をたたえていました。弟子たちは、イエスを見て、生ける神の栄光を見ていたのです。主は私たちに救いを与えてくださった。神は私たちとともにおられる。まさに、イエスは、神の御子インマヌエル(「神は我々とともにおられる」の意)なのです。イエスは、神が処女から生まれる男の子キリストに名づけられた「インマヌエル」[イザヤ7:14]という名前を体現していました)
あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがた(弟子たち)の見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。(歴代の預言者たち、王たちは、神の約束を信じて、イスラエルを贖うキリストを待ち望んでいました。ユダヤ人たちは、律法、詩篇、預言者の書いた聖書のみことばを信じています。聖書に書かれたキリストを待ちわびていました。幾世代も幾世代も、今か今かと待ちわびていました。預言を預かる預言者たちは、神から希望のみことばをいただきますが、自分の目でその成就を見ることはありませんでした。彼らは、自分の目でそれを見たいと、どれほど願ったことでしょうか。彼らが神から預かるみことばは、後世の人々のためです)
また、あなたがたの聞いていること(神の御子イエス・キリストの口から語られるみことば)を聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(預言者たちは、後世の人々に神の御救いの訪れ、天から遣わされる神の御子キリストの訪れを知らせながら、みずからキリストを見ることはありませんでした。ダビデ王も、詩篇において、多くの証言をしています。「主(イスラエルの神)は、私の主(人の子として、イスラエルに来てくださる神の御子キリスト)に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』[詩篇110:1]」。詩篇24篇では、自分の目で見ることのできない主〈とこしえの王キリスト〉を、自分の霊において捉えています。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。(ユダヤ民族十二の部族の門が開かれて、それぞれの部族に、救い主〈神の聖者キリスト〉が入って来られる。イスラエルのまことの牧者キリストが、私たちの魂の飼い主が来られる)
永遠の戸よ。〈天の御国の戸よ〉上がれ。栄光の王が入って来られる。(ユダヤ民族十二部族それぞれを救うために、キリストは彼らのところに来られる)
その栄光の王とはだれか。(ダビデの王座にとこしえに着座される王とはどなたなのか。それは、)万軍の主。(天から来られる栄光の主キリスト)これぞ、栄光の王。(天地万物を治める方、天においても地においても主権を持たれる、力ある方。悪しきものどもを足台にされる万軍の主キリスト)」[詩篇24:9,10]
栄光の王に恋焦がれるダビデ王は、時代が違っていたので、キリストの御姿を見ることも、キリストの御声を聞くこともかないませんでした。しかし、イエスとともにいる弟子たちは、ダビデが恋焦がれ、預言者たちも渇望したキリストの姿をイエスに見、キリストのみことばを自分の耳で聞き、神の御子イエス・キリストと顔と顔を合わせて語り合っているのです)」(ルカ10:23・24)
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。(イエスは、正規の学びをしていない、ガリラヤ地方の田舎ナザレの人ではないか。果たして、イエスは律法をどこまで知っているのだろうか)』
イエスは言われた。
『律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』
すると彼(律法の専門家)は答えて言った。『「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。』
イエスは言われた。
『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』」(ルカ10:25-28)
永遠のいのちを受けるために何をしたらよいのか、とイエスに尋ねた人は、律法の中から正しい答えを引き出していました。
イエスは、それを実行しなさい、と言われました。
律法を知識として知っていても、実行しなければ、その人の生き様とはなりません。
文字の律法に救いがあるのではなく、律法を実行する人の言葉と行ないとに、神の霊が働かれます。そして、生けるまことの神がともにおられることを証しされるのです。
神を愛することで、自分の価値が整います。
隣人を愛することで、自分のうちに愛が育てられます。
そして、愛は多くの罪を覆うのです。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。(自分のいるべき場所、自分のなすべき事をわきまえます。隣人を愛する愛は、想像とともに自制によって育ち、神の愛によって整えられます)
(愛は)礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。(自分の利益を求めるならば、妬みと怒りと憎しみとによって心をすりへらします。愛は悪いものを崩し、良いものを建て上げます。しかし、愛から出ていないことは、偽りに塗り固められてやがて破壊に至ります)
(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(コリント第一13:4-8)
神を愛し、隣人を愛し、律法を完全に守られた方は、神の御子イエス・キリストです。キリストの中に、完全な愛があり、神の赦しがあり、神との和解があり、永遠のいのちがあるのです。
イエスは小さい子どもたちを呼び寄せ、弟子たちの真中に立たせて言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)
小さい子どものように、自分を低くすることの大切さを教えられました。見栄も外聞もありません。子どもは叱られるとき、からだごとで受けとめます。そして、自分が悪かったと分かったとき、「ごめんなさい」と言って泣きじゃくり、許しを請います。彼らは大人よりも素直です。世に汚されていない幼子の心は純真なのです。
また、小さい子どものように純真な魂、信頼する心、自分を低くして飾らない純朴な魂を、神の御子イエス・キリストが愛しておられることを思い出して、純真な魂を受け入れる者は、救い主イエス・キリストの御思いを受け入れる者です。そのような人は、父なる神に受け入れられます。
イエスは、「小さな子どものように、自分を低くする者は、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:4)とも言われました。
天の御国で誰が一番偉いかを決めるのは、天の神です。
イエスは、神のことばを語られたのです。
聖書の知識を蓄えている人ではありません。
みことばの知識の豊富な人ではありません。
聖句を暗記している人ではありません。
小さい子どものように、混じり気のない純粋な目で生ける神の栄光を見、混じり気のないイエスのみことばを喜んで味わい、イエスのあとをつき従う人です。
純真な幼子は、真実と不真実とを瞬時に見分ける霊的機能を持っているようです。
純粋な魂は、良い牧者を見分けます。愛のある御声を聞き分けます。
自分を守り愛してくれる真実なものを知っているのです。
羊のためにいのちを捨てる良い牧者を知っています。イエスは、人を造られた神のひとり子です。魂の所有者です。
魂の深いところにある、真実な受信機に耳を傾ければ、神の子羊イエスは、羊のことを心にかけておられる真実な愛であることを受け取ることでしょう。
自分自身で否定しようとしても、周囲の人々に何を言われようとも、魂は知っています。魂は、揺るがない信仰の種(いのちの宝)を手放しません。
人間の知識は、霊を覆ういばらのようです。真理のみことばに出会いながら、みことばの光から目を背けさせます。
しかし、魂は知っています。魂は御救いを求めているから、また、魂の飼い主を慕い求めているからです。
「わたしの羊(素直な霊魂)はわたしの声(魂の飼い主、羊のためにいのちを捨てる真実な羊飼いの示し)を聞き分けます。(聖書を知らなくても、教会に行ったことがなくても、仏教や神道の中にいても、宗教を信じていなくても、生けるまことの神の御霊の示しを見分けます)
またわたし(魂の所有者であるいのちの主)は彼ら(神に帰る魂)を知っています。
そして彼らはわたし(神から出たみことばと神の御霊)について来ます。
わたしは彼ら(神を信じ、神の愛の中に入って来る、純粋な魂)に永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手(神の愛の中)から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:27、28)
父なる神が、神の子羊イエス・キリストにお与えになる御霊の教会は、このような素直で、混じり気のない心で神を信頼する神の子どもたちです。
彼らは神に信頼しています。
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)
「(生けるまことの神は)わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」(詩篇91:2)
「主は、御自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇91:4)
素直さのない心、純真でない魂は、信じることができません。
イエスは言われます。
「あなたがたは信じません。
それは、あなたがたがわたしの羊(神の羊)に属していないからです。」(ヨハネ10:26)
神の子どもたちの家は、素直な霊魂の集う家です。
キリストの手の中にある「七つの御霊の教会」は、素直な霊魂の神の子どもたちの家なのです。