ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

見えない宝

 

 神は唯一であって、神と人との間の仲介者も唯一です。

 唯一の神は、永遠の昔から御座に着いておられる天の神、天地万物を創造された全能の神、いのちの根源です。

 神と人との間の仲介者は、万物の存在の目的であり、また存在の原因である方、神のひとり子、すなわち、人の子として地上に来られたキリスト・イエスです。

 

 パウロは、その証のために、宣伝者また使徒に任じられました。復活のキリストがパウロに現れて、召命を与えられたのです。

 キリストは、パウロを、信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。

 

 「ですから、私(パウロ)は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(生まれつきのままの性質が神の栄光を現わすのではありません。男らしさとは力強さではなく、自分の守るべき者たちのために神の御前に立って執り成す、神のしもべとしての正しい精神です)

 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。(金や真珠などで身を飾り美しくあることが最上の女ではありません。目に見えないものにこそまことの価値があります。目に見えるものに霊の実があるというのでしょうか。良い行ないは女を内側から美しく輝かせる宝です)」(テモテ第一2:8-10)

 

 イエスは、天の御国のたとえを話されました。

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて(その畑の中に宝があることを隠したまま)、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払って(畑の購入に充て)その畑を買います。」(マタイ13:44)

 

 天の御国の宝は隠されています。この世にとって価値ある宝と、天の御国の宝は相容れないものです。天の御国の宝、すなわち、天の神が見逃されない宝は、この世の人々が価値を見出さないものであり、大勢の人が見逃すものです。

 天の神を知り、天の御国の宝の価値を知る者だけが、その宝を見い出すのです。

 

 正直者は馬鹿を見る、これはこの世の理屈です。

 しかし、魂の価値をはかられる神は、正直者に目を留められます。

 

 世の中で足蹴にされている人たちの中に、神の認められる宝のあることがあります。神は、彼らを覚えておられます。

 

 「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。

 彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」(箴言31:10)

 

 彼女は、自分の身を飾るために、金や真珠や宝石や高価な衣服を買いあさりません。

 悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べ、主を恐れる彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みの教えがあります。

 魂に素直であり目に見えないものを意識して聖なる方を恐れる彼女は、天に目を向けて信仰によって生きているのです。

 

 「麗しさはいつわり。

 美しさはむなしい。(どんなに美しく咲き誇った花々も、時が来るとしおれ、目をそむけられます)

 しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(彼女の心は豊かになり、幕屋である肉体は衰え姿は変わっても、心を潤すいのちの泉があります)」(箴言31:30)

 

 あこや貝の中につくられる真珠のようです。

 天然のあこや貝の中に真珠がはいっている貝の割合は、1万個体に対して1~2個体くらいだそうです。

 

 同じように、人として世に生まれながら、隠された宝である心の真珠(天の御国の宝)をつくらない人のほうが多いのです。(良い行ないを自分の宝とする人は多くありません。目に見えるものに心が奪われる人は、人の目に見えないものに意識を向けないのです)

 

 律法の専門家であっても、これは落とし穴です。

 黄金を聖いものにする神殿よりも、黄金に目が奪われてしまいます。

 聖書の知識があることによって高ぶってしまいます。自分は天の御国に入るのにふさわしい者であると思い、自分を顧みる機会を失ってしまうのです。知識は人を高慢にします。

 

 イエスは、そのような人々に言われます。

 「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、(天の御国に)入ろうとしている人々をも入らせないのです。」(マタイ23:13)

 「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。(白く塗られた)墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(人々から権威を認められても、天の神は彼らのうちに天の御国の宝、すなわち、義の実(神の御思いに従う新しい心と、悔い改め、感謝、赦し、希望、賛美、喜び、信仰、愛、平安など御霊が結ぶ実)を見い出されません。彼らのうちに天の御国の宝を御覧になれないのです)」(マタイ23:27,28)

 

 人は裸で、母の胎から出て来ました。

 また、人は肉体を脱いで、魂のあったところに帰ります。

 

 何も持っていけません。

 何も持たずに、肉体を着て生まれて来た魂は、肉体を脱いで、何も持たずに帰ります。

 

 人は、真珠を宿すあこや貝に価値を見出し、真珠を宿さないあこや貝は、ほかの貝と同等に扱います。

 天の神は、魂に天の御国の宝を見い出されます。永遠のいのちの御霊を持つ魂を天の御国にいれて、永遠のいのちの御霊を持たない魂、すなわち、天の御国の宝を見い出すことのできない空っぽの魂を火の燃える炉に投げ込みます。

 

 「そのとき、正しい者たち(肉体を着て生きている間、目に見えない神を恐れ、神を意識して正しい心で歩んだ人たち、また、神に立ち返り、神とともにあった人たち)は、天の父の御国で太陽のように輝きます。」(マタイ13:43)

 

 世の人々が宝だとは思っていなかった見えない宝(神を恐れる心)が、実は、天の御国にはいる、天の御国に携える宝だったのです。

 

 「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(主を畏れて身を低くすれば富も名誉もいのちも従って来る。永遠のいのちと天の御国、だれも奪うことのできない天の御国の宝は、見えないところに隠された宝です)」(箴言22:4)