ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神よ あなたを知りたい

 

 月刊オリーブライフの「いのちの祈り」の記事です。

 「カタールで生まれ、ハマス創設者の一人を父に持つムスリムの女性。幼少期からイスラエルを憎むように育てられ、後にガザでハマスのメンバーと結婚。イスラム教のコーランにある通り、ユダヤ人とクリスチャンを皆殺しにすべきと信じていました。

 しかし、2007年にガザを支配し始めたハマスがガザ地区住民も殺害するのを見て、イスラム教の教えに疑問を持ち始め、コーランを読み直し、暴力の教えに失望します。

 真の神を求めて祈った彼女は2014年のある晩、戦時下での死の恐怖の中、『神よ、あなたを知りたい。』と叫びました。すると夢で主が現われ、『わたしは神、イエスだ。あなたはわたしの娘。』と語られました。

 初めて聞いたイエスの名に愛を感じ、ネットで聖書を学び、今は喜びに溢れてイエスとともに歩んでいます。」

 

 アラブ系の人やユダヤ人たちに夢や幻で主ご自身が現れるという証を耳にします。そして、彼らは、それが「イエス・キリスト」であることを知ると、イエス・キリストの弟子となるという証を聞きます。

 

 また、中東ではなく、アメリカやヨーロッパでも、イエスを求めていたわけではないのに、もやもやとした迷いの中にいるときに、イエスの御姿を見る人の証しを聞きます。

 おそらく、クリスチャンではないその人たちは、現われたイエスの姿を見ると、誰に聞かなくても、誰に教えられなくても、その人がイエス・キリストであることを、瞬時に知るようです。そして、イエス・キリストが自分の救い主であることを信じるのだそうです。

 

 神は、求める者に答えてくださいます。

 疑いながらではなく、素直な心で求めたことは、天の神に通じているようです。

 

 かつて、神は、イエスが神の御子であると信じることのできない私にも、イエス・キリストが神であることをはっきりと心に刻んでくださいました。

 

 人間の力ではイエスを信じることはできません。私自身の知識や努力では、イエスを信じることができませんでした。

 人間の知識によって、人間の姿の人の子イエス・キリストが神のひとり子であると、どうして信じられましょうか。人の知識は常識をわきまえます。人の子イエスが、神のひとり子であるとは、なんというまやかしの教えでしょうか。

 

 そのことを純粋に信じているキリスト教会のクリスチャンたちは、異次元の人たちです。偽りに引っかかる浅はかなお調子者か、夢見る人か、現実逃避の人たちなのか。

 しかし、社会的なはみ出し者というわけでもなく、無学なゆえに信じ込む知恵のない人たちでもなさそうです。

 

 聖書を学ぶために訪れたキリスト教会で、いつも、疎外感を持っていました。教会の人たちは、イエスが神の御子であると信じて、何の疑いもないのです。そして、私の知らない別の世界で、静かな平安を持ち、喜んでいるのです。

 

 心は惹かれているのに、何かに拒まれているようです。もどかしいものです。教会のほかの人々は、先に行っているのに、私だけスタートできずに同じ所に留まっているようです。

 

 出発したいのに、何かが押しとどめます。先が見えないのです。彼らには、信仰と喜びがあります。しかし、私は何を信じたらよいのかわからないのです。

 イエスが神の御子であることがわからないのです。聖書を探っても、神がわかりません。大きな岩が立ちはだかって、教会の人たちの仲間にならないように、と私をさえぎっているようです。

 

 とうとう、わかったことは、キリスト教会は、イエス・キリストを神の御子と信じている人たちの集いなのだ、救い主と信じているのとはまた違う、私にはわからない繋がりがある、ということでした。

 

 教会の人の目には透明のガラスなのに、私の目にはすりガラスで、何があるのかがわかりません。中にあるものの姿はぼんやりとしか見えないのです。

 

 私は、洗礼を受けたならそのもやもやしたものが晴れるのかも知れないと考えて、宣教師に洗礼を受けたいとお願いしました。しかし、洗礼は「イエスは私の救い主、神の御子キリストである」と告白する儀式です。宣教師は申し訳なさそうに首を横に振りました。

 

 私は、宣教師に祈ってくださるようにお願いしました。イエスを信じる信仰と愛が与えられるように、と祈っていただきました。

 そして、キリスト教会から離れました。

 

 神は、私に不思議な夢を、2回見せてくださいました。キリスト教会の中にイエス・キリストがおられることはわかりましたが、私はそのキリストの手をつかむことはできませんでした。イエス・キリストはクリスチャンたちの神であって、私はよそ者という印象を持ったのです。

 

 教会に行かなくなった私は、不思議な夢を見ました。

 暗闇の中を一人さまよう私が、進むべき方向もなにもわからなくなって、不安と恐れの中で「誰か~、誰か助けてぇ~」と叫んでいる夢で、目を覚ましました。

 後日、同じような夢を見ました。

 やはり暗闇の中を一人、当てもなくさまよう私。しかし、そのとき私は「そうだ、教会へ行こう。」と心の中で決めているのです。夢の中に、教会らしき建物が見えると、ともしびの一つもない漆黒の闇に、キリスト教会の中から漏れている光が浮かび上がっています。それは、希望の光でした。

 

 目を覚ますと、なんで二回も、こんな夢を見たのだろうと思いました。本当にキリスト教会に私の求めている何かがあるのか?と考え、教会には行かないで、キリスト教の本場と思っていた長崎に行ってみることにしました。

 

 イエス・キリストが本当に神の御子なのかを知りたかったのです。

 私の心は天に向かい、「本当にイエス・キリストが神の御子ならば、イエスは神の御子であると、私にわかるように教えてください。」と祈りました。

 

 神は、私の祈りに応えて、天にしるしを現わしてくださいました。私は、そのしるしを見逃しませんでした。わたしの心は、イエスが神の御子であると受け止めました。理屈ではありません。知識でもありません。突然、私の中に信仰が置かれたのです。

 これは不思議な体験でした。岐阜の家を出発するときには、もやもやしていた解決できない課題が、突然、何事もなかったかのように晴れ渡り、課題があったことすら忘れてしまう感覚です。もう随分前から、イエスが神の御子キリストであることを知っていたかのようでした。信じるのではなく、知ったのでした。

 

 真理を求めていた私のうちに、真理が宿った瞬間です。揺るぎのない巌です。私の存在の中心に立つ大黒柱です。私は真理に立たされました。

 

 民数記24章にあるバラムが神に目を開かれたようなことが、私に起こったのです。

 「バラムは、彼のことわざを唱えて言った。

 『ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。

 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

 なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。

 あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる。』(民数記24:3-5、9)

 

 長崎のカトリック教会のマリア像の中から、恐ろしい声を聞きました。男のような低い声で、威圧的な恐ろしい声でした。それは、敵意に満ちていました。

 クリスチャンになってから、マリア像は神が忌み嫌う偶像であって、世界中の偶像の中でマリア像には最も数多くの数え切れないほどの悪霊が宿っているということを聞いて、納得しました。

 

 カトリックでは、神の御子イエス・キリストと同じ神のような権限を与えて、マリア像に祈る人が多くおられるようです。

 本物のマリアは、神の御子キリストよりも前に出ることはないでしょう。自分の胎から出たイエスですが、マリアは、キリスト・イエスの弟子でした。神の御子キリストに仕えるしもべでした。十字架以降は、イエスの弟子のヨハネの母として、ヨハネの家で暮らしました。

 

 ローマ・カトリックが権威を与えたマリアの霊は、天の御国の門の前に立って、イエス・キリストの信者たちが門をくぐるのを妨げている、反キリストの霊のようです。

 神は、神と人との仲介者の名前は、神の御子イエス・キリストの御名、と定めておられます。ほかの者にその栄誉は与えられません。

 

 神を知りたい人は、神御自身の御前に出て、自分のことばで伝えましょう。

 「神よ。私はあなたを知りたい。私にわかるように教えてください。」

 

 神は、一人ひとりをご存知です。その人にわかるかたちで、答えてくださることでしょう。

 神は、生きておられます。昨日も今日も、いつまでも。

 生けるまことの神は、心の願いを聞かれます。真実な心、素直な魂の叫びを、目に見えない神、しかし、生きておられる神に向かって届けましょう。