ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神を体験しよう

 

 日本人は、無宗教の国民だと思われています。しかし、信仰はあります。

 自然からのメッセージを聞き、肌で感じる霊的な側面があります。

 

 目に見えないものを信じるのは、大和民族の特性なのではないかと思います。

 第二次世界大戦中に、神道家の岡本天明に、古神道の神、封印された国常立神(艮の金神)が降ろした神示「日月神示」には、大和魂は、日本人の半分もいない、と言われています。大和魂は、自然と調和して生きていた大和民族の魂です。

 日本古来の大和民族の血統は、半分もいないということです。

 戦後八十年といわれる現在では、もっと減少していることでしょう。

 

 大和民族は、日本民族の中に残っている日本の国造りを担った人々でしょう。

 多く見積もって、日本人の四割として、あとの六割はその当時の大和人の子孫ではない人たちなのかもしれません。

 

 日本人の魂は、大和魂といわれますが、正確にいうなら、大和民族の魂であって、日本民族は、大和魂の影響を色濃く受けている魂です。

 

 大和民族は、自然とともに生きていました。朝日とともに一日を始め、自然の光(太陽)とともに暮らしていました。

 自然の中で、インスピレーションを受けて、霊と魂は生き生きとしていたでしょう。トンビが低く飛べば雨が降る、と言うように、自然の生き物たちから、暮らしに関する知恵を得ていたのです。

 

 彼らの知恵は、自然環境の中の目に見えないいのちに与えられていました。

 彼らにとって、生かしてくださる霊的な存在は、現実そのものでした。子どもが大人に教えられて育つように、大人は自然から学び知恵を得ていたのです。

 

 まだ、聖書がなかったとき、ノアは、神の御声を聞いて、神の命じられることばに従って、箱舟を造りました。

 まだ、聖書がなかったとき、アブラハムは、神の御声を聞いて、神に命じられるまま、父の家を出て、神の示される地(カナン)へ行きました。

 

 ノアも、アブラハムも、信仰の人でした。

 神は、彼らを神を畏れる正しい人である、と仰せられます。

 彼らは、聖書がなくても、目に見えない霊なるお方、生けるまことの神を知っていたのです。

 彼らは、全能の神、主として知っていました。

 

 アブラハムの子孫、ヤコブの十二人の息子の子孫であるユダヤ民族は、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神から、「聖書」をゆだねられました。

 アブラハムに「全能の神、主」という名で知られていた神は、ユダヤ民族には「イスラエルの神」と名乗られました。

 

 父祖アブラハムは、自分の耳で神の御声を聞きました。

 しかし、イスラエルは、神が油を注がれた預言者によってみことばを受けます。

 

 現代人は、計算をしてくれる計算機に頼っているうちに、暗算が苦手になりました。

 パソコンやスマホなど、便利に文字を検索できるツールに頼っているうちに、漢字が書けなくなりました。

 

 同様に、レビ人たちは、文字に書かれた「聖書」に頼っているうちに、神の御声が聞こえなくなってしまったのかもしれません。

 

 神道や仏教の人たちよりも、意外と、キリスト教徒のほうが目に見えない霊的存在から教えられるという、霊的な経験が少ないのではないかと思います。

 

 おそらく大和民族のひとりひとりは霊的体験を普通に経験していたのではないかと思います。彼らは霊的な感覚を互いに分かち合う群れだったと思います。だれひとりとして、霊的体験を否定するような、霊の目が閉じている人はいなかったと思います。

 

 神は、近代化に伴って大和民族の閉じた霊の目と霊の耳、そして、霊的感覚を呼び覚ましてくださるでしょう。

 霊の声を聞く、不思議な体験をする、霊的感覚が日常の出来事として戻って来る。

 それは、大和民族に神を知らせ、神の国をともに建て上げる者として招いておられるからでしょう。

 

 大和民族がもともと持っていた賜物なのです。自分たちのうちにあるものです。どこかに行って捜し出すものではなく、自分のうちに眠っていたものが目覚めて、神と繋がるのです。

 

 私が神学校に入学したとき、信仰歴一年三か月くらいでした。受洗してから、二年も経っていません。聖書も全部読んでいません。

 日曜学校の子どもたちを教えるために聖書知識が必要だと思って、一年コースで学ぶつもりが、三年間学んで卒業したのでした。

 

 同級生は、信仰歴五年以上の人たちです。牧師を目指す兄弟や、牧師と婚約していて牧師夫人になるたちとともに学ぶのですが、聖書知識のない私は、聖書に出てくる人物の名前もわからず、人物の背景も何もわかりません。

 教師に質問されても、質問の意味がわからないのです。答えがわからないのではなくて、何を質問されているのかを、全く理解できませんでした。

 

 私は惨めでした。また、同じように授業を受け、学んでいても、置いてけぼりにされているようで、本当に情けなく、自分自身の価値が感じられません。

 教職者になろうとする人たちですから、みんな優しいです。蔑んだり、迷惑がることすらありません。それが、救いであり、より一層、自分を小さく感じたものでした。

 

 部屋で一人の時に、切に切に、主に祈りました。

 同じように学んでいるから、すでに知識と経験のある同級生たちとの差は縮まることはありません。永久に、この差は埋められないもののように思いました。

 信仰年数が長い分、神との関係も私より深いでしょう。何をしてもかないません。

 イエスの回りに、イエスの近くに取り巻いている同級生の後ろに、私は立って見ているようでした。

 

 「イエス様。私は、知識においても、経験においても、びりっけつです。今からほかの人たちと同じくらいの知識を増すことはかなわないように思います。

 どうか、私に主を体験させてください。体験においては引けをとりたくない。体験させてください。私に、神を体験させてください。」と祈りました。

 

 グル-プに分かれて、それぞれの教会に遣わされて奉仕をするという学びの機会がありました。

 奉仕のためにグループごとに分かれて、祈り備えます。

 

 何と言っても、信仰の浅い私です。肉の欲求に素直な者です。

 その頃、私はケーキが食べたくてしかたありませんでした。その奉仕とは関係なく、以前から「ケーキが食べたい。主よ。私はケーキが食べたい。」と思い続けていました。

 

 グループで奉仕に行くと、その教会の宣教師がケーキを作っておいてくださったのです。私は子どものように喜びました。神は私の願いを聞いてくださったんだ、と祈りに答えられる神の存在に、信仰の目が開けました。

 

 祈りを聞いてくださる神を、実生活で体験することが始まりました。

 高尚な祈りではなく、自分の肉の欲の祈りなのに、神は幼い子供にプレゼントを渡すかのように、サプライズで、霊的感覚が聖書に塗り替えられておらず意気消沈する私を楽しませてくださいました。

 

 神学校を卒業してから、知らない町で、初めてお会いする宣教師のもとで働く孤独な私に、様々なしるしをもって楽しませてくださいました。

 たとえば、車を運転していると雨の境を走らせて下さり、私が雨を追いかけるのだったか、雨に追いかけられるのだったかの記憶が定かではありませんが、「キャッホー」と楽しませてくださいました。

 

 また、それから数年後、別の教会で、アメリカ・ツアーに出掛けた時のことです。

 アメリカでのセミナーに参加するツアーでした。

 私は、心を注ぎ出して、「主よ。ディズニーランドへ行きたい。どうか、ディズニーランドをコースの中に組み込んでください。」と毎日祈りました。

 

 最初の予定には、ディズニーランドは入っていませんでした。

 牧師たちが、このツアーで行くべき場所はどこかと祈っていると、何故か、ディズニーランド、ディズニーランドという思いが出て来る。ディズニーランドって遊びじゃないか、何故、ディズニーランドなんだ、と思いつつ、何かはわからないけれども、神の導きを感じて、コースの中に、ディズニーランド行きがはいったそうです。

 

 私たちが信じている神は、生きておられます。

 教会の中に鎮座しておられるわけではありません。また、御神体のようなものや、像の中にお住まいでもありません。

 

 私たち一人一人が祈れば、すぐ近くにいて聞いてくださる方、また、会話しているかのように近くにおられる方です。主は、私たちとの会話を楽しんでおられるのです。

 

 どうか、神を体験することを求めてください。信仰が生きた喜びとなります。

 神は、私たちが祈る前から、私たちの願い事を知っておられるようですが、何よりも、私たちの声を聞きたいのです。

 神は、私たち一人一人を愛しておられます。そして、もっと日々の歩みの中、日常生活において神を実感し、生ける神を体験し神を知ってほしいと思っておられると思います。

 

 自分の人間的に思える願いも、神に祈ってみましょう。

 神は、どのように答えてくださるのでしょうか。人によって、神の現れ方も違うでしょう。

 一つ祈って、それが答えられるまで待つ、というよりも、あれもこれも祈りましょう。

 

 時々、神が細き声で、「あなたの祈りを聞いた。」と言われますが、どの祈りのことでしょうか?あれもこれも祈っていますが、と思います。

 しかし、聞かれるんだったら、どの祈りのことかわからなくても、まあいいか、と思い、「主よ。どの祈りのことかはわかりませんが、祈りを聞いてくださってありがとうございます。」と感謝します。

 

 神を実体験すると、信仰は特別なものではなく、毎日生きている道であり、生活である、と思うようになりました。

 

 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、求めているものを神に打ち明けなさい。

 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6,7)