「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」(創世記2:7)
「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼(人)がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。
人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、(それらの生き物の中に)見あたらなかった。
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
すると人は(女を見て)言った。
『これこそ(人の助け手)、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。
これを女と名づけよう。
これは男から取られたのだから。』
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:19-24)
神は、エデンの園に置かれた人に、神の被造物のそれぞれに名前をつけることをゆだねられました。
神は、エデンの園を管理する人に、すべての被造物をゆだねられたのです。
エデンの園の管理者である人を助ける同士の必要を覚えられました。管理者の人を支える生き物を造る必要を覚えられたのです。
神である主は、人から取って、もうひとりの人を造られました。人は、自分自身を「男」、人から取られたもうひとりの人を「女」と名づけました。
人を支える人は、自分自身です。人のあばら骨から造られた人だからです。自分自身のあばら骨から造られた人ですが、独立した思考や感情や意思を持つ人です。
ひとりの人が、男と女に分かれて、助け合い支え合うのです。人は、男と女に分かれて、一体の人となりました。
あるクリスチャンの兄弟は、あばら骨から取られた女は、男のハートである。男は、感情の部分を女に取られているので、感情表現に乏しい。しかし、女はハートの部分によって造られたので、感情豊かだ、と言います。
それで、男は理性的で理屈っぽい傾向があり、女は感情的で理路整然と説明することが苦手である傾向がある、と言いました。
面白い解釈だけど、言い得ている、と思いました。
人の肉体には精神が宿っています。
男のからだの中にも精神があります。
女のからだの中にも精神があります。
精神は肉体のうちに隠れていますが、肉体に現れます。目に見えない精神は、肉体という目に見えるかたちに影響を与えています。
精神が弱れば、肉体は病みます。精神が元気であれば、肉体は健やかです。
神である主によって造られた人は、神を意識すると、魂の存在に気づき始めます。
肉体の中に霊魂が宿っているということを知ります。
肉体は、世の始まりからそうであったように、時間の経過とともに朽ちて土に戻ります。
しかし、魂は永遠に生き続けるものであるということがわかって来ます。
朽ちる肉体の中に、永遠のもの(魂)が存在しているのです。
永遠に生きる魂が、朽ちる器の中に入っています。
神は、朽ちる肉体の中の魂に、新しいからだを与えて、永遠に生きる人に造り変える、新しい創造を用意されました。
そのためには、霊魂がきよめられなければなりません。思いも感情も意識も行動もきよめられなければなりません。
魂を肉体から取り出して、強力洗剤で洗い漂白剤で白くすることはできません。
しかし、人を造られた神は仰せられます。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
神は、魂を雪のように白くする、すぐれたきよめを用意されました。
神の子羊の贖いの血です。
地上の獣の子羊ではありません。神の子羊は、神御自身が天から遣わされた神のひとり子に造られた「人の子」の肉体です。
神は、神のひとり子に肉体を造られました。ひとり子の肉体のいのちが、罪の贖いのために神にささげられました。
「人の子」となられた神の御子イエスの血が流されたのです。
世の罪を取り除くために流された、罪を贖う神の子羊の血です。
人類の罪の身代わりとして、十字架で処刑されたナザレのイエスの血は、罪の報酬である死の呪いを打ち破る勝利の血です。
死の呪いに勝利した神の子羊イエスの血は、罪を贖うきよめの血です。
たとい、どんな罪を犯した人でも、そのきよめの血を受けるならば、罪は赦されて、雪のように白くなる、と神は仰せられます。
神の子羊イエスのきよめの血を受けるとは、神はイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を取り除き、罪を赦してくださった、ということを信じることです。
神の子羊イエスの血の力は、信仰によって有効になるからです。
神の子羊イエスの血によって罪が赦されたことを信じる者は、神の子羊イエスを遣わされた神をも信じる人です。その人は、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった神の子羊イエスに感謝し、罪を赦してくださった神をたたえます。
この契約が成立するとき、神の子羊イエスは私たちのキリストとなられ、神の子羊イエス・キリストは、私たちの救い主となられます。
キリストの十字架のみわざと贖いの血が流されたのは、ただ一度だけで、完了しています。十字架の血は、世の罪を取り除くためですが、神の子羊イエスの血の力を信じない人々もいます。そういう人々は、契約の中に入っていません。
契約は成立していないので、神の子羊イエスは、彼らのキリストとなっておられません。
地上に遣わされた唯一のキリストを信じる人たちにとっては、神の御子イエスはキリストであり、信じない人々にとっては、知らない国の話です。
さて、キリストの血によって罪の贖われた人たちは、信仰によって、真理の御霊を受けます。
永遠のいのちを持つ聖霊が、その人のうちにお住まいになるのです。
肉体は、魂をいれる、ただの地上の器ではなくなりました。神格者であられる聖霊を宿す神の神殿とされたのです。聖霊の宮です。死から甦られた神の子羊イエス・キリストの御霊を分け与えられたのです。
キリストの御霊は、一度死んでも三日目に死から甦られた、復活する神の御霊です。甦られたキリストのように、復活の新しい人を生む御霊です。
キリストの御霊を分け与えられた私たちは、キリストのからだに繋がっています。頭であるキリストの御思いを、御霊によって教えられます。
私たちの肉体は、生まれつきのままの肉体ではありません。天に迎え入れられる、聖とされる魂(御霊によって新しく生まれ、御霊によって教えられ、新しい人に造り変えられるための新しい創造を受ける魂、光を愛する魂、キリストを愛する魂、祈りと賛美と礼拝を学ぶ魂)を入れる器なのです。
「神は主(イエス・キリスト)を甦らせましたが、その御力によって(信じる)私たちをも甦らせてくださいます。
あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。」(コリント第一6:14,15)
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(朽ちて滅びる肉体ではなく、永遠のいのちを約束された神の子どものからだです)
あなたがたは、代価(神の子羊イエス・キリストの贖いの血)を払って(悪魔の支配と永遠の死から)買い取られたのです。
ですから(キリストの流された血により罪が贖われた)自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(信仰によって生きることは、神の栄光を現わす道です。自分には神の栄光が現れていないと思っていても、神の目には、闇の世にあって光り輝く魂なのです)」(コリント第一6:19,20)
真理の御霊を受けた聖霊の器、すなわち、罪の贖われた私たちの器の中には、神をほめたたえる魂があるのです。