キリスト教でいうところの「新生」とは、キリストが十字架で流された、神の子羊イエスの罪の贖いの血の御力を信じ、自分の罪を言い表わして神に罪を赦された人が、聖霊によって、霊的に新たに生まれ変わることを言います。新生した魂は、意識を神に向けます。
天に向けられずに地上に属する魂は、生まれつきの肉の思いで生きます。神が霊であることを知らない人は、肉の思いを抱えたまま、信仰の道を歩み、つまずきます。
人間の言葉に慣れ親しむ魂は、聖書のことばの霊的意味がよくわからないので、理解しやすい人間のことばを求めて、魂に安らぎを得させるのです。
聖霊によって生まれるとは、罪人の古い肉の性質の意識に死ぬことでもあります。
肉によって生まれた人間は、肉の思いのまま生き、霊のことが悟れません。
聖書では、神から離れていること、神のことばから外れていることを「罪」と言います。
神とは、天地万物を創造されたいのちの根源であられる神、目には見えないけれども、人を造り、天地万物を保っておられる神のことです。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、(不義をもって真理をはばんでいる不敬虔と不正の)彼らに弁解の余地はないのです。(私たちは、自然からのメッセージ、生き物たちの非常事態を知らせる動きによって、人間には知り得ない予知能力の恩恵を受けて来たではありませんか)
というのは、彼らは、(神の怒りが天から啓示されて)神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心〈神を霊的に知ろうとしない頑なな心〉は暗くなったからです。」(ローマ1:20、21)
人は霊長類といわれる、霊的な存在です。
しかし、ほかの生き物とは異なる特別な機能(創造主を知り、創造主の御旨に仕え、天地万物を統べ治められる霊なる主、生けるまことの神をたたえつつ、神の被造物を管理する特別な能力)を持つ霊的な生きものとして存在しているはずの人は、霊的スイッチを切って、霊なる神との交わりを断ち、神の役に立たないものとなりました。
霊なる神を、霊として捉えることができずに、まことの神から遠く離れた人間は、神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもの、すなわち、自分たちと同じ肉なる存在のかたちに似た物と代えてしまったのです。
地上のいのちは、肉体の中で生きます。肉体と魂は分離しており、死によって肉体を脱ぐと、魂ははだかになります。
しかし、天上のいのちは、霊体の中で生きます。霊体と魂は一体です。霊体も魂も永遠に生きるので、死はありません。
肉体は朽ちます。霊体は朽ちることがありません。
肉体は死ぬので、肉体が朽ちると、魂は、着ていた肉のからだを失って、はだかの状態です。
霊体は永遠に生きるので、魂は、その霊のからだを失うことはありません。
神は、神のことばに背く罪によって、エデンの園から追放した人に、永遠のいのちを得させるために、罪の贖いの神の子羊イエスを遣わされました。
朽ちて行く肉体の中にある魂は、朽ちる生き方をします。信仰も希望もありません。
しかし、神のひとり子イエス・キリストは、地上に来て、神から離れて霊的死人であるユダヤ人たちに、生けるまことの神の存在を教えました。律法によって思いに覆いがかけられていたユダヤ人たちは、先祖の神を、霊なる神、すなわち、文字〈律法〉の神ではなく、生きておられる神として、知らされたのです。
肉体を持つ神の御子イエスは、ユダヤ人たちの間を巡り、御父について、天の御国について、永遠のいのちについて、聖霊【真理を教える真理の御霊】について教えられました。
イエスは、御父および御子イエス・キリストとの交わりにはいらせるために、弟子たちに、御霊を分け与えてくださいます。
私たちに永遠のいのちを得させようと御救いの御計画を持つ神は、イエスが天に上られて、もはやキリストの姿を見ることができなくなっても、イエスのことばを思い起こさせて、真理を教える真理の御霊を、ひとりひとりに分け与えてくださいます。
キリストがお与えになる真理の御霊は、御父が約束された「もうひとりの助け主」です。救い主キリストが地上から取り去られたあとに、いのちの道へと導くキリストの御霊を地上に下して、私たちのうちに授けてくださるのです。
信仰者たちが目指す、とこしえの天の御国は、御霊による新しいいのちを得る人々がはいる国です。霊のことは御霊によって教えられます。肉の力では、霊のことを悟ることはできません。
また、新しいいのちを得るためには、古いいのちを捨てなければなりません。
肉のいのちに死んで、御霊の新しいいのちを受けるのです。
古いいのちは、自分自身で殺すのではありません。神と和解し聖霊によって新しく生まれる人に、ひとりひとりに分け与えられる御霊が宿られて、おのおのの御霊が養育係となります。
肉の人は、己が自分の主人です。自分の良いと思うことに従い、罪の奴隷の歩みをします。罪の奴隷の中に、御霊はお住みになりません。
御霊の人は、御霊が自分の主人です。御霊の思いにへりくだり、神の奴隷の歩みをします。御霊は、弱い私たちを助けてくださいます。
「私たちは、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために執り成してくださいます。」(ローマ8:26)
信仰の恵みにより、御霊によって新しく生まれ変わる人は、神がどのようなお方なのかを知るようになります。また、目には見えないが確かに生きておられる神が、ともにいてくださることを実感するのです。これは、自分自身の個人的な体験であって、教義や理屈ではありません。
火のような激しい試練の中にあっても、度重なる苦しみの中にあっても、目に見えない不思議な御力に守られている、という揺るぎない平安と、何故か耐える力が与えられるのです。
体験する人にはわかります。それは、自分自身から出ている力ではないことを。御霊が内側から支えてくださっているのです。
「なぜなら、御霊は、神の御心に従って、聖徒のために執り成しをしてくださるからです。」(ローマ8:27)
死の呪いをもたらす罪の縄目は、御霊とともに歩むことで、解き放たれて行きます。
それまで大事だと思っていた事への関心が薄れ、光を求めるようになるのです。
魂に絡みついていた、いばらやおどろ、この世の常識や人間の教えは、御霊の御思いに尋ねると、価値を失っていきます。
次第に、魂の望みは、霊的ないのちを与えるものへと向くようになります。
自分自身の魂が、古い価値観を手放し、御霊の教える神の価値観へと移行し始めるのです。
御霊は、この世の虚しさを教えるために、多くの失敗と痛みと嘆きを通らせます。古い肉が誇っていたものを容赦なく打ち砕かれることもあります。
この過程で、本気度を試されます。痛みを恐れて退くか、永遠のいのちを得るためにはどんな犠牲をもいとわないのか。
新しく生まれ変わる魂は、自分一人の苦しみではないことを知り始めます。目には見えないけれども、生かしてくださる神の御霊がともにおられ、神の御思いを知らせて、励まし勇気づけてくださることがわかり始めます。
すると、心の中でうめきながら、私たちのからだが贖われて神の子どもにしていただくことを待ち望み、神に希望を見いだすのです。
私たちは、この望みによって救われているのです。
この望みの中に身を置くと、滅びの束縛から解放されて、神の御霊の栄光の自由の中に魂は安らぐのです。
聖霊によって「霊の人」として、新たに生まれ変わることは、神の交わりの中にはいることであり、神の愛を体験し、信仰と希望と愛の恵みの中に、魂を安らがせることです。
私は、YouTube【日本の祈り歌】が好きです。
「祓音(はらおと)」で心は凪となり、「八声(やこえ)」で私の魂は、勾玉のようなかたちで、宇宙に浮かぶ胎児のような感覚になります。
神の胎内で安らぐ素直な魂は、邪気もなく、ただ造られた神に安息し、御霊の声を喜びます。