私たちはみな、人生を終えると、肉体を脱いで、魂のすがたに戻ります。
人生の学びは、魂の学びです。
魂は、何のために、学びを必要とするのでしょうか。
霊的に捉えるならば、魂の学びは今生の一度だけではないようです。私たちの記憶には残っていないですが、魂は、幾度も肉体を脱ぎ着替えて、学びを繰り返しているようです。それには、目的があるようです。
魂にどんな目的があるというのでしょうか。
「永遠のいのち」を得るという、恵みの課題を受け取って、この地上に生まれて来ているようです。
聖書を読む中で、「永遠のいのち」とは、キリスト教会が提唱する定義ではなく、生けるまことの神と霊的に交わる「御霊の教会」に約束されたものであることが分かって来ました。
聖書の黙示録には、ヨハネが見た七つの金の燭台の真中に立つ、死とハデスとの鍵を持つ神のひとり子であり、新しい創造をされる方である、栄光のキリストの右の手の中には、七つの星がある、と書かれています。燭台は七つの教会、星は七つの教会の御使いたちです。
天におられるキリストとともにあるのは、七つの御霊の教会です。すなわち、永遠のいのちを持つ教会です。
栄光のキリストは、世の罪を取り除く贖いの血を流した神の子羊イエスが、死から復活して天に上り、父なる神から聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を受けられて、神の御座の右に着座された神の子羊イエス・キリストの姿です。
神のひとり子であった方が、肉体を持つ「人の子」となられ、罪の贖いの神の子羊の血を流し死と悪魔に勝利して、聖霊によって新しく生まれ、死から復活した新しい創造の「神の子ども」となられました。
御座におられる、いのちの根源であられる大いなる主は、仰せられます。
「あなた(死から甦り御霊によって生まれた神の子羊イエス)は、わたし(全能の神、主)の子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。」(へブル1:5)
ナザレのイエスは、神のひとり子です。
イエスはユダヤ人たちに言われました。
「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)
イエスは、アブラハムの子孫のユダヤ人たちに、約3000年前に生きていた父祖アブラハムが生まれる前から、神のみそばにおられた神のひとり子なのです。
また、イエスは、神の契約を持つアブラハムについて、ユダヤ人たちに次のように証言されました。
「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。(アブラハムは、信仰によって、人の子となって来られる神の御子キリストが、アブラハムの子孫に生まれることを思って大いに喜びました)
彼(ユダヤ民族の父祖アブラハム)はそれを見て、喜んだのです。(神の契約は、この神の御子キリストにあったのです。神がアブラハムにお与えになった契約は、神の御子キリストによるアブラハムの子孫の御救いと、神の御子キリストにより神がアブラハムにお与えになったカナン全土を相続するのです。神の契約は神のひとり子キリストによりことごとく成就します)」(ヨハネ8:56)
神の子羊ナザレのイエスは、ユダヤ人たちが「私たちの神」と呼ぶお方、すなわち、イスラエルの神のひとり子です。それゆえ、イエスは、イスラエルの神を「わたしの父」と言われました。
霊の閉じたユダヤ人たちは、イエスのことばを理解しません。ユダヤ人たちは、怒りに燃えました。彼らは、イエスを、聖なる神を汚し神の御名を冒瀆する者として訴え、罪に定めて十字架につけました。
ユダヤ人たちは、ナザレのイエスに向かって、おまえは神の子どもではない、と罵倒しました。神の子と偽証する罪を着せて、ナザレのイエスを処刑しました。
しかし、神は仰せられます。
「わたしは彼(人に捨てられた神の子羊イエス)の父となり、彼(十字架で処刑された神の子羊イエス)はわたし(永遠に生きる神)の子となる。」(へブル1:5)
神のひとり子は、神がアブラハムに約束されたとおり、人の子となって、アブラハムの子孫の中にお生まれになりました。
人の子となった神の御子イエスは、「ダビデの子」と呼ばれました。しかし、イエスの父は、ダビデでもなく、アブラハムでもなく、天地万物を創造された全能の神なのです。
イエスは、肉に死に、御霊によって生まれました。
御霊によって生まれる「新しい人」の初穂となられたのです。御霊によって新しく生まれた「新しい人」、神の子羊イエス・キリストは、御霊のからだと永遠のいのちを得る「神の子ども」の長子となられたのです。
神のひとり子の栄光の御姿を捨てて「人の子」となられたイエス。
ナザレのイエスは、神の栄光を現わす「神の子羊イエス」となられました。
神の子羊イエスは、罪の贖いのみわざを成し遂げて、死から甦る「新しい人(第二のアダム)」となられました。
第二のアダムは天に上り、神から聖霊のバプテスマを授ける「キリストの権威」を受けられました。
神の子羊イエス・キリストは、聖霊のバプテスマを授けて、人の子らを、御霊によって新しく生まれる「新しい人」に造り変えられます。
神は、御霊が生んだ「新しい人」たちを死から甦らせて、御霊のからだと永遠のいのちを得させられます。
最初に死から甦ったキリストを長子とする神の子どもたちです。
キリストを頭とするキリストのからだです。
神は、キリストを頭とするキリストのからだ、すなわち、「新しいひとりの人」の父となること、そして、新しいひとりの人(御霊によって生まれた新しい人、すなわち、七つの御霊の教会)は神の子となる、と仰せられます。
神は、イエスの弟子たちに聖霊のバプテスマを授けられました。キリストの御霊を飲む者とされたのです。キリストを頭とする「新しい人」を造られます。
聖霊を受けた弟子たちは、御霊によって、神の教会を造りました。キリストを頭とするキリストのからだの機能が働く御霊の教会が、神の都エルサレムに造られました。
しかし、異邦人に割礼と律法を要求する厳格なユダヤ人により不和が生じ、また、異邦人の信者が増えることでユダヤ人は迫害され、ユダヤ人と異邦人の間に亀裂が生じて分裂すると、御霊によって造られた神の教会は、聖霊を知らないみことばの教会となりました。
永遠のいのちを得させるのが目的の神の教会は、御霊を締め出して、宣教のことばによるキリスト教会へと成長していきました。聖霊のバプテスマを授けるキリストによって新しく生まれる御霊の教会ではなく、十字架の死と復活の神の子羊イエスに繋がるキリスト教会が増え広がりました。
旧約聖書のユダヤ教と同じく、新約聖書のキリスト教となりました。文字に仕える者となっています。
ユダヤ人に『聖書』をお与えになった神は、御霊によって神の子どもを完成されます。
聖霊のバプテスマは、永遠のいのちを得させる神の約束の成就です。キリストを死から復活させたのは、聖霊だからです。
御救いのみわざを完了された神の子羊イエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を受けました。これこそが、イエスがキリストであることの証明であり、また、死から甦らせて永遠のいのちを得させる神の御力です。
文字に仕える信仰は、霊なる神の栄光を見る目、神の御声を聞く耳をふさぎます。
「聖書」のない古神道の中には、霊で神と交わり、神の御声を聞く人や、異言を話す人たちがいます。
大和魂は、自然の中から神の気配を感じ、神の導きを知る感覚を持っています。おそらく、彼らの魂は、人間の教えにあまり汚されておらず、身魂を磨くことを良しとし、霊なる存在に近づく生き方を心がけているからだと思います。
私たちはみな、肉体を脱いで、魂のすがたに戻ります。必ず、その日は来ます。
肉体を着ている間は、魂のことを意識せずにいます。そして、この世に魂を合わせて苦しんでいるかもしれません。
見た目に豊かになっても、心が満足しない経験があるかもしれません。何が、不足か、何が不満なのか、本人もわかりません。
私たちは忘れています。私たちの始まりは魂であったことを。肉体を着る前は、永遠のいのちを得ることを目標に、地上にやって来た魂であったことを。
私たちは、裸で生まれ、何も持たずに魂に戻って行きます。この地上の試みの期間は、魂をとこしえの安息に入らせるために設けられた恵みの時なのです。
魂がむなしいのは、虚構を生きているからです。
魂は、素直に生きてほしいのです。ありのままでいいのです。世に流されて自分を見失わないでほしい、自分を喜ばせていい、魂の喜びを大切に生きてほしい、と願っているでしょう。
自分を見つめ直す時を設けて、心をリセットし、魂がくつろぐ時をつくりましょう。
普段降りることのない駅で途中下車して、初めての静かなお店で何か飲み物を飲みながら、自分に語りかけましょう。
自分自身の中に、解決の糸口はあるのです。自分に無理させない、偽らない、苦しめない、自分のうちなるものと和解しましょう。うちなるものの方が、正しい道を知っているでしょう。
魂に正直に、また、魂が安らぐことを選んで生きるならば、永遠のいのちの御霊が住まいやすいところとなるでしょう。
素直な魂が、とこしえの安息を得るのです。