第二次世界大戦後の政教分離により、「国家神道」として統括されていた神社は、独立した存在となり、各神社が相互の連帯を図り、神道の伝統を守り継承していく目的で、「神社本庁」が発足されたそうです。
神社本庁は、伊勢神宮を本宗と仰ぐ全国8万社の神社に包括する組織のようです。
私は、官公庁だと思っていましたが、官公庁ではなく、宗教法人法に基づく包括宗教法人で、神社が神社本庁に属するかどうかは自由なのだそうです。
一方、神社本庁に属さない神道もあります。
日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教の、純神道、原始神道、神祇信仰と呼ばれる「古神道」があります。
古神道は、世界各地に発生した原始宗教の一つで、儒教や仏教など外来思想が日本に伝わる前から存在していた日本固有の原始的な信仰だそうです。自然や万物に宿る、目に見えない神を大切にし、特定の教祖や教団組織はなく、自然崇拝、祖先信仰、神意判断などをおもな内容としているようです。
海、山、木、石などあらゆるものに神が宿ると考え、自然崇拝や精霊崇拝の信仰なのだそうです。
古神道の方が、キリストの御霊を持つキリスト者の信仰に近いと思います。霊的な部分での共通点が多く、聖書に「信仰の父」と書かれているアブラハムの信仰のようであり、霊なる神との交わりを体験していると思います。
日本神道と一言に言っても、いろいろあるように思います。
神道には八百万の神々の多くの名前があり、より人間に近い関係性を感じます。
古神道では、国常立神の宇宙神の中に集約されて、神はおひとりという概念もあるようです。古神道では、神の中にすべてがあり、人は神の中に生き、人の中に神が生き、神と人とは一体のような、それでいて、より神の主権が際立つようで、人は霊魂の存在なのだという思いを持ちます。
それにしても、どうして神道と古神道に分かれているのか、と考えてみました。役割が異なるのかも知れないと思いました。
古神道と神道の一部は、大和民族の信仰を保つために残されているのではないのか。また、多くの神道は、日本民族の精神を支える役割を担っているのではないのか。
私は、日本列島の中で神がかたち造られた大和民族は、世の終わりの時に、神代の世界を地上に迎えるために、神の使命を受けた神の民であるように思っています。
神代の世界とは、人ではなく神が中心となる草木も喜ぶ世界、古神道が待ち望む調和と平和の世界「弥勒の世」のことです。
仏教が思い描く「涅槃」であり、天も地も霊界も一つとなる三千世界です。
また、聖書に書かれている、世界を統べ治める王である神の御子キリストを天から迎える平和な世界の「千年王国」です。
神道も仏教もキリスト教も、同じ平和の世界を目指しているのです。
日本列島の中には、同じ世界を見て、それぞれの立場でその世界を目指す信仰があります。それは人間がつくり出した宗教ではなく、霊的な存在に導かれて、上から与えられた信仰によって、その実現を待ち望んで来た信仰です。
神道も仏教もキリスト教も宗教として存在し、立場も違い、教義も違うのにも関わらず、共通の希望(煩悩や欲などの罪穢れのきよめと、生老病死の悩みからの解放と、魂の安らぎや喜びと平安が約束された「とこしえの安息といのち」の希望)を見ているのです。
宗教であって、宗教ではありません。魂の抱く普遍の信仰なのです。
神は、大和魂に、その信仰をお与えくださいました。
大和民族は、その信仰を守ってきました。
世界中で、最も信者の数が多いのは、キリスト教です。キリストの中に永遠のいのちがあると思っているからです。
人類は死の先にあるはっきりとしないものに怯えています。キリスト教は、十字架で流された神の子羊イエスの血によって罪は贖われていることを知らせてくれます。神が遣わされた神の御子イエス・キリストを信じるならば、罪は赦され、もはや、罪の裁きと滅びの恐怖に脅かされることはありません。
神の子羊イエスは、聖霊の御力により、三日目に墓から甦られました。
イエス・キリストが死から復活されたことは、キリストを信じる私たちもまた、死に勝利して、一度死んでも甦って永遠のいのちを得ることの保証であると信じています。
イエス・キリストを信じたキリスト者は、罪が赦され、死の国から救い出されて、永遠のいのちが与えられ、天の御国にはいる神の子どもとされる、と信じて、教会に集い、神を礼拝しています。
しかし、日本国では、こんなに有難い福音を伝えているキリスト教が広がりません。
それは、日本国には、弥勒の世を目指して身魂をきよめる神道や、魂の居場所を涅槃に置く仏教の教えが先にあるからです。
大和民族には、すでに、生けるまことの神との霊的交わりの体験がありました。
霊的交わりの実体験が信仰の中心にあり、霊的存在の気配を感じる民族なのです。
キリスト教は、一つ一つの教会の箱の中に世界があって、外からの侵入者は異邦人のような存在です。同じ日本人であっても、生きる世界の違う異邦人なのです。その箱の中にはいるには、とても勇気がいります。
神道では、どこの神社に訪れてもよそ者感はありません。訪れている人はよそ者が多いので、よそ者とみなされる疎外感を感じなくてよいのです。
そんなおおらかさと、自由なところが、きっと居心地の良い安らぎの場所となっているのでしょう。
手を合わせる人々は、ほかの人を気にすることなく、ひとり、目に見えない神に心を向けます。声にならない声を、神に届けます。それが、心からあふれ出る、偽りのない素直な声であり、霊的な交わりです。
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、(自分は神の御前に出るのにふさわしい者であると、神の前に誇らしげに堂々と)立って、心の中でこんな祈りをした。
「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」
ところが、取税人は(自分は神の御前に出る資格のない、どうしようもない者であると悲しみながら)遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず。自分の胸をたたいて言った。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
あなたがたに言うが、この人(罪を悔改めた取税人)が、(神に)義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』」(ルカ18:9-14)
自分はすでに永遠のいのちを手に入れている、神に義とされていると、自分を高くする者は、実は、神の御前でも、心の高い者です。
自分が罪人であったことを忘れて、また、神に義とされるのは神の一方的な恵みであることを忘れて、自分の手柄であるかのように振る舞って、他の人々を見下してしまうのです。
これは、義人とされた人の陥りやすいわなです。
イエスは言われます。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたし(天から、神のひとり子イエス・キリストが遣わされて来たのは)正しい人(自分は正しい、自分に罪は無い、と思っている人)を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
イエスは、魂を癒す医者です。魂を病んでいる人のところに来られました。
魂が健やかで十分楽しい、幸せだと思っている人は、イエスのもとに来ません。
イエスは、正しい人を(天の御国に)招くために来たのではない、と言われます。
自分の不義を認め、その欠けのある状態に苦しみ、助けを求めている人に解放の望みを与えるため、また、悔い改めさせて、重い荷をおろさせるために来られました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(神の御子イエス)のところに来なさい。わたし(あなたの魂の悲しみも嘆きも苦しみも、また、その原因をも知る神のひとり子キリスト)が(あなたがたの背負っている重荷をおろし)あなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく(神に近づいてはならないとあなたがたを叱ったりしません)、へりくだっているから(人に捨てられ蔑まれ嘲られた御子イエスは、だれよりも、あなたが体験している悲しみや痛みや孤独を知る者ですから)、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。(神に従うゆえの不条理の苦しみを負うこと、また、正しさゆえにそしられることは神に覚えられることです。キリストがともにいて、その十字架の道をともに歩みます。ひとりではありません。天の御国に招いてくださるキリストから学びなさい)
そうすれば魂に安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく(あなたを意味もなく苦しめはしません。あなたをきよくするための懲らしめには、神の報いが伴います)わたしの荷は軽いからです。(キリストが一人一人に分け与えてくださる賜物は、あなた自身の喜びとなり、誉れとなるのです)」(マタイ11:28-30)
目を天に向けることもできず、自分の罪を悔いて、神のあわれみを求める取税人の心は、飾り気のない真実な心です。また、神が赦してくださる恵み深いお方であることに、望みを置いているのです。
神は、幼子のような偽りのない心を受け取られました。
キリスト教会に集っているから安心なのではありません。
神社でひとり静かに祈る人の祈りにも、神は耳を傾けておられます。
神は、へりくだる者とともにおられます。心を注ぎ出して助けを求める人の近くにおられます。
神が地上に遣わされた神の御子イエス・キリストは、自分の力ではどうしようもなく、もがき苦しみ、闇の中で出口を求めて叫ぶ魂、また、病んだ魂、罪のわなにもがき解放を求めている魂に出会い、信仰と希望を与えるため、魂の存在そのものを救う神の愛を知らせるために来られたのです。
目に見えない神仏との霊的な交わりを体験する神道や仏教の人たちが、キリストの御救いを受けるならば、彼らは、容易に御霊の教会の魂とされる気がします。
霊とまことによって礼拝することを、すでに知っているからです。