人として生まれた私たちの人生は神の賜物です。魂への贈り物です。
肉体を持ち、今あるということ、それは、魂の途上にあるということです。
魂は、誰もが持っている、内なる宝です。
私たちは、どんな試練にあっても耐え抜き、生きることをあきらめなかったゆえに、今生の魂の体験が許されました。
魂が幾度も肉体を取り替えて、地上の体験をしているならば、今生を生きる私たち一人一人の体験は、おのおのの魂の今までの経験の延長上にあるということです。
そして、おそらく、今生の体験が最後となると思われます。なぜならば、この世の人類の歴史は、もうまもなく幕を閉じようとしているからです。
今ある私たちは、最後の人間になるかもしれません。地上に生まれ落ちた魂の最後を飾る体験です。
前世で徳を積んでこなかった魂は、今生は波乱万丈な人生に押しつぶされそうになっているかもしれません。しかし、前世でやり遂げられなかった魂の学びに真摯に向き合って、一から学び直すつもりで取り組むならば、魂を価値あるものに引き上げることができます。
魂は、ひとりひとりのうちにある宝です。苦しみも悲しみも痛みすらも、魂を生かすためのカンナであり、ノミなのです。
ひとりひとりの人生は、樹木の成長のようです。
おのおの芽を出して木を成長させます。
自分の人生を受け入れてしっかり根を張り健やかに成長する人生もあれば、他人を羨み他人の真似をして根を生やすことよりも格好良くするために心を消費してしまう人生、自分を受け入れる根が弱いために大風(試練)に倒れてしまう人生もあります。
日向に育って大きく成長しても実を結ばない人生もあります。日陰にあっても、懸命に養分を吸い上げて、逆境を好転させて挽回する人生もあります。
何で私ばかり⋯とか、神は不公平だとか、恵まれていないと嘆く人生もあります。しかし、スピリチュアルな人々の証言では、赤ちゃんは、自分自身でお父さんとお母さんを選び、その家族を選んで、生まれて来ているそうです。
すなわち、私たちひとりひとりは、自分自身で何を学ぶかを申請して、神の許しを受けて、その家族に生まれて来ているとのことです。
自分のうちにある魂は、自分で選んで来た、○○○○という名前を持つ人生を、今生の生命で体験しているということです。
それまでの体験で、多くの学びをやり残して来た魂の人生は、多くの課題を抱えています。
私は、子どもの頃、夏休みにはいると、夏休みを有意義に過ごすための計画を立てました。毎日、何時から何時まで宿題を、こつこつと仕上げていくための計画です。
計画を立て終えた時の充実感は感慨深いものです。すべてがうまくいっていると、心から安心しました。しかし、何故か毎年、夏休みの四日前の日は、大泣きする羽目になりました。父は怒鳴り、母はオロオロし、姉は白い目で見ています。最後の三日間は、過酷な日々でした。最後の三日間で、手つかずの宿題全部をやり終えるという荒業を無我夢中で、一心不乱に成し遂げました。孤独な作業です。
夏休みが終わると、先生に宿題を提出するのは、クラス全員の務めです。それゆえ、必死になって仕上げました。
魂も、結果を出さなければなりません。
コツコツ学びを積み上げて来た魂もいるでしょう。しかし、初めにゆるく生きる人生を繰り返した魂は、最後に慌てて帳尻を合わせなくてはいけません。
その重圧たるや、想像を絶します。
夏休みの宿題は、提出日が決まっています。また、先生に提出するということもわかっています。
しかし、人は、魂に宿題があることを理解していません。
魂の仕上げについての課題も、提出日も、提出する相手についても、忘れてしまっています。魂の姿のときは理解していたことを、肉体を着ると意識の奥に隠されてしまうからです。肉は、魂の意識を、見えない神から隔てます。
何か、大事なことを忘れているような、やらなければならない何かを仕遂げていないのではという焦りと喪失感に心はざわめき虚ろな魂を抱えています。
何をやっても続かない、飽きっぽい私が、キリスト教会で洗礼を受けるに至りました。家族は、どうせすぐ行かなくなるだろうと高をくくっていました。
しかし、これだけは、なぜか続きました。
神棚に祈っている私の姿は数日間で見なくなる。お寺参りも思い立ったときだけ。どうせ、キリスト教会もそのうち行かなくなるだろう。
しかし、両親の安心とは裏腹に、神学校へ入学するという始末です。
さすがの家族も焦りました。何をやっても中途半端なやんちゃ娘が、どんどん自分たちの手に届かない所へ行ってしまうのです。
自分でも不思議です。私の魂は、神に立ち返ると、不動の安息を得ました。この世では得られない安息です。ここが私の居場所だと思いました。
私の手が天に伸ばされたというよりも、神の御手が捉えてくださったというような印象です。信仰の種が植えられたというよりも、信仰が着せられたという感覚です。
浮遊していた魂の心許ない静かな不安は消え、神の懐に入る安心のような感覚です。
聖書を学んでいく中で、キリストが魂の救い主であり、いのちの根源なる生けるまことの神と私の魂との仲介者であることを知りました。私の魂を造られた創造主を知りました。私の魂の悩み、なぜ存在しているのか、どこに向かっているのか、おそらく、誰に聞いても答えられないような、存在する意味が不十分であることの悩み、すなわち、魂の悩みの解答を得たのです。
私の魂の悩みは、いのちを与えて下さった御父と離れていたゆえの不安と恐れと迷いであったことを知りました。
魂の故郷、帰るべきいのちの御父のみもとに帰る安らぎを知ったのです。
「たとい私たちの外なる人(肉体)は衰えても、内なる人(御霊とともにある魂)は日々新たにされています。」(コリント第二4:16)
みことばは真実です。
魂は、本来あるべき姿(神のことば〈神のひとり子〉と一つ)に戻ると、いのちにみなぎります。
大人であっても、また、年老いても、新しい「なぜ?」を日々体験します。幼子が「これ何?」「何で?」と質問攻めするように、魂は幼子のようにいつも新しい事を学んでいきます。
肉体の中に在る苦しみは、一人一人異なります。ある人は精神的な事かも知れません。ある人は肉体的な事かも知れません。ある人は霊的な事かも知れません。ある人は金銭的な事かも知れません。
しかし、そのどれもが、その魂が学んで克服しなければならない(手放してゆだねることを学ぶ)宿題なのでしょう。
私たちは、今生で人生の成功を目指しているのではありません。
魂を極めるために存在しているのです。魂を極めるとは、帰るべき所に魂を帰すことです。
どんなに社会的地位や身分があっても、引退すれば、肩書のない人に戻ります。その時、素の自分を取り戻すのです。
素の自分は、飾らない魂の状態です。魂の存在に気づきましょう。魂を大切にしましょう。今までの労力をねぎらい、感謝しましょう。そして、魂の望んでいることに耳を傾けましょう。
地位や身分を誉れとし魂の声に耳を傾けなかった人も、自分の存在価値が揺らぐ時、ずっと以前から内にあった魂に意識を向けてみましょう。
これからは、魂の喜びのために、いのちを燃やしてください。
自分が今まで生きて来たことを尊び、存在していることに感謝しましょう。その感謝と自分を愛する優しさが、魂に潤いを与え、魂の宿題を思い起こすこともあるでしょう。
心残りのある事に向き合って、赦しと和解に努め、心の安らぎを得ましょう。
魂に素直になる、そこから始めましょう。
そして、今生をいのちで輝かせましょう。遅くありません。気づいた時からスタートできるのです。
ありがとう。ありがとう。自分の人生にありがとう。自分のいのちにありがとう。自分の魂にありがとう。
魂が、いのちの主とともにありますように。
私が魂の安らぎを求めていた頃の、私の魂の状態は次のようでした。
「あなた(目に見えない大いなる方)に向かって、私は手を差し伸べ、私の魂は、乾き切った地のように、あなたを慕います。
主よ。早く私に答えてください。
私の霊は滅びてしまいます。
私に行くべき道を知らせてください。
私の魂はあなたを仰いでいますから。」(詩篇143:6,7,8)
神を呼び求める者に、神は真実であられます。
穴に下る者と同じにされず、新しい心を与え、優しく導き、魂の羊飼いとなってくださいます。