ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

あなたの信仰があなたを直したのです

 

 十二年の間長血をわずらっている女がいました。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしたのに、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。

 女は、自分の病気を直すために財産を使い果たすまで治療費をかけたのに、かえって悪くなる一方だったのです。

 

 女は、病気から解放されたくて仕方ありません。イエスの噂を聞きました。病気を癒す力を持つ神の人です。

 女は、イエスのことを耳にして、イエスを取り巻く群衆の中に紛れ込みました。彼女は考えました。この方(イエス)のお着物にさわることができるなら、きっと直る、と。

 どこからこの信仰が湧いて来たのでしょうか。医者たちに望みを持てなくなった彼女は、癒しのわざをされるこの方(イエス)だけが唯一の救いのように思われたのでしょうか。

 

 群衆の中に紛れ込んだ女は、うしろから、イエスの着物にさわりました。

 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。

 

 その時、イエスは群衆の中を振り向いて言われました。

 「だれがわたしの着物をさわったのですか。」(マルコ5:30)

 イエスは、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいたからです。

 

 群衆は押し合いへし合いでイエスを取り巻いています。そこで弟子たちはイエスに言いました。

 「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも「だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」(マルコ5:31)

 だれもがイエスの着物に触れるほど近くにいます。

 しかし、イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられました。

 

 これは、ただ近くにいたからイエスの着物に触れてしまったという類のものではありません。明らかに、意思を持って触った人がいるのです。

 イエスのうちから力が外に出て行くとは、イエスの力を必要とする者がイエスに信仰を持って行なったことに違いないのです。

 

 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り(確かにイエスから癒しの力が出て、自分はイエスによって癒されたことを知り)、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けました。

 

 そこで、イエスは彼女にこう言われました。

 「娘よ。あなたの信仰があなた(の病気)を直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)

 

 女は病気が直った喜びに加え、イエスの愛に触れて喜びと感謝に満ち溢れたことでしょう。

 イエスは、ただの癒し主ではありません。交わりをもって安心と将来の希望をも得させてくださる慰め主であり、魂の救い主なのです。

 

 イエスは「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。

 イエスのうちにある力が、あなたを直したとは言われませんでした。女の信仰が、イエスのうちの力を引き出して、女を癒したと言われました。

 信仰ある女は、イエスの着物を通して、父なる神の恵みを受けたのでした。

 

 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言いました。イエスは、会堂管理者ヤイロとともに、ヤイロの家に向かっていたのです。

 ヤイロが、イエスに一生懸命「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」とお願いしたからです。

 

 ヤイロの家に向かう途上で、長血をわずらう女の出来事がありました。女の癒しを見て、ヤイロは希望を持ったことでしょう。あるいは、早く家に行って娘に手を置いてください、と心はざわついていたのでしょうか。

 

 会堂管理者の家の人は言いました。

 「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生(イエス)を煩わすことがありましょう。」(マルコ5:35)

 それを聞いたヤイロは、もっと早く家にお連れしていれば、と無念な思いがよぎったのでしょうか。

 

 その話のことばを聞いたイエスは、ヤイロに言われました。

 「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)

 イエスは、ヤイロに信仰を求められました。イエスを信じているように、と言われたのです。

 

 会堂管理者の家に着くと、人々が取り乱して大声で泣いたりわめいたりしていました。ヤイロはこの状況の中にありながら、イエスのことばにしがみつきました。

 なぜ、娘が死んでしまった現状において、信仰を持ち続けることができたでしょうか。

 

 ヤイロは、長血の女の癒しを目撃しました。そして、その時、イエスは、女に言われたのです。「あなたの信仰があなたを直したのです」と。

 長血の女が直ったのは、女の信仰によったのです。

 そして、娘の死が知らされた後で、ヤイロは、イエスにことばを受けました。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。

 望みは、ヤイロの信仰にあるのです。イエスを信じ続ける信仰が、イエスのうちから出る力を引き出すことを、ヤイロは学んでいました。

 

 イエスは、家の中にはいり、泣きわめく人々に言いました。

 「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」(マルコ5:39)

 

 人々はイエスを嘲笑いました。とんだ詐欺師だ。死んでしまった者を、眠っているとは何事か。死んだ者が生き返るとでも思っているのか。自分のうちに、死者を甦らせる力があるとでも言うのか。

 

 イエスはみんなを外に出し、子どもの父親と母親とイエスの供の者たちだけを伴って、死んだ子どものいる所へはいられました。

 人々は、嘲笑いました。しかし、娘が生きることを心から願う父と母はイエスを信じました。イエスのことばにすがり、信仰によってこの状況をイエスに託したのです。

 

 「(イエスは、横たわっている)その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼ら(少女の父と母とイエスの供の者)はたちまち非常な驚きに包まれた。(このような事は、神の力でなけれな起こり得ない。自分たちの目の前にいるイエスは、どういうお方なのか)

 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、厳しくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。」(マルコ5:41-43)

 

 イエスは、みわざの後で、「このことをだれにも知らせてはならない。」ということをよく言われました。

 自分を知らせたいならば、自分のわざを広く知らせてほしいと思うのが人間です。しかし、神から遣わされているイエスは、そのことを望まれませんでした。イエスは、ご自分の栄光を現わすために来られたのではありません。ご自分を遣わされた神の栄光を現わすことを望まれたのです。

 

 イエスは、自分を教祖とする教会を造るために来られたのではありません。

 すべての人の思いが父なる神に向けられて、神の栄光をたたえ、そして、神が遣わされた神のひとり子であるイエスが仲介者となって、人々を神と和解させるために来られたのです。

 

 イエスが求めるものは、信仰でした。人の噂によって注目されることではありません。人から聞いた話によって信じた者の信仰は根づきにくいのです。自分の思っていたものと違うと感じると、簡単につまずくのです。

 自分自身の信仰で、イエスと結びつく者は強いのです。また、信仰のある者は神の栄光を見ます。その信仰に、神の力が現わされるからです。人は、信仰によって、生けるまことの神を体験するのです。

 

 イエスは、郷里に行き、安息日に、会堂で教え始められました。それを聞いた多くの人々は驚いて言いました。

 「『この人(ナザレのイエス)は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇蹟はいったい何か。

 この人(イエス)は、大工ではないか。(大工だったヨセフの息子だ)マリアの息子で、(イエスはマリアの息子たち)ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。(イエスの)姉妹たちは、ここで我々といっしょに住んでいるではないか。』

 このように、(郷里の)人々はイエスにつまずいた。

 イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。』と言われた。

 そこ(イエスの郷里)では、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行なうことがおできにならなかった。

 そして。人々の不信仰に(イエスは)驚かれた。」(マルコ6:2ー6)

 

 不信仰は、神の栄光を見ることがありません。

 信仰によって、神の栄光は現わされます。

 イエス・キリストにみわざをする力があっても、受け取る者に信仰がなければ、神は、わざをなされません。

 

 信仰が天と地を繋ぐものです。

 信仰の父アブラハムは、信仰によって義とされました。

 

 イエスは女に言われました。

 「あなたの信仰があなたを直したのです。」