ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

肉の人間にはわからない

 

 ユダヤ人たちはイエスに言いました。「(本当にあなたが神から出た者であるなら)あなた〈ナザレのイエス〉はどんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

 

 「イエスは彼らに答えて言われた。 

 『この神殿を壊してみなさい。わたし(ナザレのイエス)は、三日でそれ(神の神殿)を建てよう。』

 そこで、ユダヤ人たちは言った。

 『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』(ユダヤ人たちは、先祖たちが建てた神殿のことを思っていました)

 しかし、イエスはご自分のからだの神殿(聖霊の宮である神の神殿)のことを言われたのである。(弟子たちにもわかりませんでした)

 それで、イエスが死人の中から甦られたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたこと(「この神殿(イエスのからだ)をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と言われたことと、イエスは一度死んで三日目に墓の中から新しいからだで復活したこと)を思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2:19-22)

 

 イエスの目は、いつも父なる神の栄光を見ていました。イエスの耳は、父の御声を慕っていました。

 地上を歩まれる神の御子イエスは、天上にあったときと同じく御父とともにおられたのです。

 

 人間は、目に映るものを見ています。

 神の御子イエスは、父の栄光を見ています。

 

 人間は、目に見えるものが実体だと思います。

 イエスは、目に見えるものは幻であって、やがて消えゆくものであることを知っておられます。イエスが見ておられるものは人間の目に見えないもの、しかし、霊の目で見るならわかるものです。

 

 目に見えるものは過ぎゆくが、目に見えないものこそが永遠のものであることをイエスは語られました。

 しかし、霊の目が閉じている肉の人間には、イエスのことばの意味が理解できません。イエスの近くにいて、いつもイエスのことばを耳にしていた弟子たちも理解できませんでした。

 目に見えるもので判断する生き方をして来た人類の、霊の目は肉によって塞がっているのです。

 

 イエスは言われました。

 「『だれでも(魂が)渇いているなら、わたし(神の子羊イエス)のもとに来て(魂を潤し、魂を生かすいのちの水を)飲みなさい。

 わたし(神の御子イエス・キリスト)を信じる者は、聖書が言っているとおりに(イエス・キリストから聖霊のバプテスマを授けられると聖霊〈キリストの御霊〉を受けて)、その人の心の奥底から、生ける水の川(御霊のいのち)が流れ出るようになる。』

 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

 イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(イエスは、十字架で死に三日目に死から甦られて復活のキリストのからだで天に上ると、父なる神から、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を受けられました。キリストの油を注がれた神の子羊イエスは、父なる神からキリストの権威を受けて、永遠に生きるキリストとなられたのです。十字架にかかる以前のイエスは肉のからだを持っておられ、聖霊がイエスに留まっておられました。聖霊を受けていない弟子たちにはイエスのことばが理解できませんでした)』(ヨハネ7:37-39)

 

 イエスの弟子だから、イエスのことばが理解できたのではありません。

 イエスは、ユダヤ人たちにはたとえで話されましたが、弟子たちには解き明かしをされました。しかし、弟子たちは完全に理解していたのではありません。

 

 人々は、イエスのことを、バプテスマのヨハネだと言ったり、エリヤだと言ったり、預言者のひとりだと言っていました。

 イエスが、弟子たちに「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられたとき、ペテロが答えて言いました。

 「あなたは、キリストです。」(マルコ8:29)

 

 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、弟子たちを戒められました。イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められたのです。

 もし、イエスがキリストである、とユダヤ人たちが噂するならば、人々はイエスを英雄のように扱うかもしれません。すると、貧しい人々のところへ行って福音を伝えることの妨げになるでしょう。また、祭司たちがイエスを十字架につけようとすることを、民衆が阻止して、父の御計画(神の子羊イエスの血を流して、罪の赦しを与えること)の妨げとなるかもしれません。

 

 「それから、人の子(神が遣わされた神の御子イエス)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後に甦らなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 しかも、はっきりとこの事柄を話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。(ペテロの反応は、イエスがキリストであることを知る者の反応です。また、先生を失いたくないという弟子の強い思いです。しかし、これもまた、神の御計画の妨げとなるのです)

 『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(人には神の御計画がわかりません。それで、自分で善悪を判断するのです。そして、そのことは、神の栄光が現われないようにしてしまいます)』」(マルコ8:31-33)

 

 神には、人知を超えた御計画と、測り知れない愛があるのです。神は結果をもすべて用意しておられます。それゆえ、イエスは十字架の死まで神に聞き従い通されました。

 イエスは、すべてのものを義とするために、自分のいのちを与えられます。主の御心は神の子羊イエスによって成し遂げられるのです。イエスは、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足されます。そして、神は、従順な子羊イエスに主権と光栄と国をお与えになるのです。

 

 イエスには、負わなければならない十字架がありました。

 罪人の罪を贖い、永遠のいのちを得させるためのキリストの使命です。神の御子イエスは、キリストの使命を受けて、神に遣わされていました。

 世の罪を取り除く子羊の血が、人類の救いには必要だからです。

 神の子羊イエスは、ご自分の血によって、人類の罪をきよめられます。

 

 私たちを救うキリストは、私たちにご自分のいのちを与えて「生きよ。」「聖霊〈永遠のいのち〉を受けよ。」と仰せられるのです。

 神の子羊イエスは死にました。しかし、聖霊が新しいからだで甦らせたのです。この新しい人、すなわち、御霊によって生まれた「第二のアダム」が、神が神の子羊イエスにあって完成された「魂の救い主キリスト」です。

 

 キリストは、私たちに真理の御霊を与えて、私たちの霊の目を開き、霊の耳を開き、私たちの唇に賛美を授けてくださいます。

 

 さて、復活したキリスト・イエスは、まずマグダラのマリアにご自分を現わされました。

 「マリアはイエスといっしょにいた人たちが(イエスの死を)嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのこと(復活のイエスにお会いしたこと)を知らせた。 

 ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それ(マグダラのマリアの証言)を信じようとはしなかった。

 その後、彼らのうちのふたりが田舎のほうへ歩いていた折に、イエスは別の姿でご自分を現わされた。

 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。

 しかしそれから後になって、イエスは、その十一人(の使徒)が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、甦られたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」(マルコ16:10-14)

 

 使徒たちは、イエスご自身から三日目に甦ることを聞いていたのに、復活のイエスを見た人たちの言う事が信じられませんでした。使徒たちは、彼らの証言を聖書に照らし合わせてみたり、イエスのことばを思い起こしたりもしませんでした。

 使徒たちは、まだ御霊を受けていなかったからです。御霊によらなければ、聖書の真理を悟ることはできません。

 イエスを信じ忠実に従った使徒たちでさえ、御霊に教えられなければ、聖書に書いてあることも、イエスのことばも理解できないのです。

 

 真理の深いところは、信仰だけでは、光が当たりません。

 真理の御霊の助けが必要なのです。

 

 イエスは言われました。

 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)