ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

創世記二十二章 試練を通して受け継ぐ契約

 

 神が「決して食べてはならない。その実を食べるその時、必ず死ぬ。」と仰せられた善悪を知る知識の木の実を食べて、アダムが死ぬ者となった時、神は、エバを騙した蛇に仰せられました。

 「わたしは、おまえ(人を騙して、神のことばに背かせ死ぬ者とした蛇)と女(女から生まれる人)との間に、また、おまえの子孫(獣の子)と女の子孫(人の子)との間に、敵意を置く。

 彼(人の子)は、おまえの頭(蛇に言葉を授けた悪魔)を踏み砕き、おまえ(獣の子)は、彼のかかと(へブル語でヤコブ、すなわち、ヤコブの子孫として生まれるユダヤ民族)に噛みつく。」(創世記3:15)

 

 神は、エデンの園から追放した人の、女の子孫に、神のひとり子を遣わすことを定められました。罪を犯したエバの子孫に、神のひとり子キリストを「人の子」として遣わすことは、この時、すでに神の御計画にありました。

 

 キリストは、女の子孫であり、人の子です。

 神は、ひとり子を、神の御子の御姿で人のところに遣わすのではなく、女から生まれる者とされます。肉体を持つ人の子として、処女から生まれるのです。

 

 神は、この御計画を持って、あまねく全地を見渡されました。一度、大水で滅ぼした地上に、ノアの子セムの子孫のアブラハムを見い出されました。

 アブラハムは、神を恐れる正しい人でした。

 神は、このアブラハムを選び、アブラハムと契約を結ばれました。

 蛇の頭である悪魔(神のひとり子を妬み、神の御子に敵対する反逆者であって、天から追放された堕天使長)を踏み砕く、「人の子」となられる神のひとり子を遣わすために、神は、アブラハムを信仰の父として選ばれました。

 

 神は、アブラハムの子孫を祝福して全地にあって神の祭司の国民とし、彼らの中に、神のひとり子キリストを生む御計画です。

 神は、アブラハムに奇跡の子イサクをお与えになりました。百歳のアブラハムと九十歳の妻サラとの間に、イサクをみごもらせたのです。

 そして、イサクは、「おまえ(蛇)は彼のかかと(ヤコブ)にかみつく。」と仰せられたヤコブを生みました。このヤコブ(イスラエル)からキリストがお生まれになるのです。そして、神が仰せられたとおり、悪魔の子らは、イスラエルに敵対し、噛みついています。

 

 神は、アブラハムに仰せられました。

 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼の生贄としてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2)

 

 アブラハムは、かつて、神がソドムの地を滅ぼすことを告げられたとき、「本当に滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」と詰め寄った人です。

 

 ところが、アブラハムは主に、「あなた(主)は、イサクがアブラハムの子孫と呼ばれると仰せられたではありませんか。それなのに、たったひとりの跡取りのイサクを屠らせるのですか。契約を守られるはずの正義の神が、契約の子孫であるイサクを私から奪ってよいのですか。契約を覆すようなことを命じてよいのですか。」と抗議することはありませんでした。

 

 アブラハムは、ただちに従いました。

 イサクが生まれたのは、神の奇跡でした。アブラハムのものでも、サラのものでもありません。神御自身のものなのです。神のものを神にお返しするだけです。心は痛みますが、生まれるはずのなかった子どもを、年老いたサラの腕に抱かせ子に乳を飲ませられた神は生きておられます。

 

 聖書には、アブラハムは、神には人を死者の中から甦らせることもできる、と考えた(へブル11:19)とあります。

 

 アブラハムの決断は、堅いものでした。

 「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼(アブラハム)は全焼の生贄のためのたきぎを割った。こうして、彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」(創世記22:3)

 アブラハムは、翌朝早く、実行に移しました。神の命令にすぐさま聞き従ったのです。

 

 アブラハムは、ふたりの若い者に、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝して、あなたがたのところに戻って来る。」と言って、全焼の生贄のためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。

 

 子どもと言っても、イサクは三十六歳になっていました。アブラハムは、百三十六歳の老人です。

 「イサクは父アブラハムに話しかけて言った。『お父さん。』すると彼は、『何だ。イサク。』と答えた。イサクは尋ねた。『(全焼の生贄のための)火とたきぎはありますが、全焼の生贄のための羊は、どこにあるのですか。』

 アブラハムは答えた。『イサク。神御自身が全焼の生贄の羊を備えてくださるのだ。』こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。」(創世記22:7-8)

 

 イサクは、自分自身が全焼の生贄の羊であることを知りません。自分を屠るためのたきぎを背負っていました。(神は、ご自分がつけられる十字架を背負ってゴルゴダの丘を上るわが子、ひとり子である神の子羊イエス・キリストの姿を、イサクにご覧になっておられたことでしょう)

 

 「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所(後に、ソロモンの神殿が建てられた神殿の丘)に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。」(創世記22:9)

 活力に満ちたイサクは、老人の父に言われるまま、縛られて、抵抗することなく、祭壇のたきぎの上に横になったのです。

 イサクは、自分の力で老人の父を押しのけて抵抗することもできたのに、されるまま、父にゆだねています。イサクは、父の信仰に従いました。

 アブラハムは、神の命令に従順に聞き従い、イサクは、父アブラハムの信仰に従順に従ったのです。

 

 神がアブラハムに試練をお与えになられたのに、アブラハムもイサクも、あらがうことなく、神の御手にへりくだっています。

 試練は、アブラハムを試しましたが、アブラハムの信仰は、神とともにありました。

 試練は、イサクを試しましたが、イサクの信仰は、アブラハムとともにありました。

 試練によって、アブラハムの信仰もイサクの信仰も、失われることはありませんでした。

 

 「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子を屠ろうとした。(アブラハムは、神が本気であることを知っていました。それで、アブラハムも、真似事ではなく本気でイサクを屠ろうと、刀を持つ手をイサクに向けたのです)

 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼(アブラハム)は答えた。『はい。ここにおります。』

 御使いは仰せられた。『あなたの(刀を持つ)手を、その子(イサク)に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたし(主)は、あなた(アブラハム)が神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」(創世記22:10-12)

 

 人は神から受けたものを、喜び楽しみます。そして、神をほめたたえます。しかし、一度受けたものが取り去られるならば、感謝が嘆きと恨みに代わるのです。

 しかし、アブラハムはそうではありませんでした。アブラハムには、ヨブのような信仰がありました。

 「私(ヨブ)は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。

 主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

 

 悪魔の試みにより、十人の子供を一日で失い、また財産を失ったヨブは、神を呪うことをしませんでした。ヨブは、そのような試練の中でも、神をほめたたえる神のしもべだったのです。

 

 神は、アブラハムの信仰と、イサクの従順とをご覧になりました。

 アブラハムは、確かに、キリストの父にふさわしい者です。「高貴な父」の名前にふさわしい者です。アブラハムは、「信仰の父」と呼ぶのに、ふさわしい者です。

 また、アブラハムの信仰に従順なイサクは、アブラハムの信仰を受け継ぐのにふさわしい跡取りです。

 

 「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼の生贄としてささげた。

 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエ(主が備えてくださる、の意)と名づけた。今日でも、『主の山の上には備えがある。』と言い伝えられている。」(創世記22:13,14)

 

 アブラハムは、主に信頼しました。主は、確かに、全焼の生贄を御自身で備えてくださいました。

 アブラハムは、すべての信仰の子どもたちの父です。神は、信仰の子どもたちの代わりに、御自身のひとり子を神の子羊イエスとして、私たちにお与えになります。

 神の子羊イエスの血は、信仰の子どもたちの罪を贖い、神は、罪が贖われた人たちを義とされます。

 

 イサクは、アブラハムとともに、神の奇跡を体験しました。そして、神は信頼すべきお方であることを、身をもって体験したのです。

 神は誓って、アブラハムに仰せられました。

 「あなた(アブラハム)がこのことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたし(主)は確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫(イサクの子孫)を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫(ヤコブの子孫に生まれる神の御子イエス・キリスト)は、その敵(悪魔)の門(死と滅びの鍵)を勝ち取るであろう。

 あなたの子孫(キリスト)によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなた(アブラハム)がわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:16-18)

 

 アブラハムは、神への信頼と神の命令に聞き従う信仰によって、契約を勝ち取りました。アブラハムは信仰によって義とされ、また、行ないによって義と認められました。

 

 こうして、アブラハムの契約は、イサクに委譲しました。

 イサクは、父アブラハムへの従順と信仰により、アブラハムの契約と祝福を受け継いだのでした。

 

 信仰がなければ喜ばれません。神の契約は、信仰によって受け、また、信仰によって次世代に受け継ぐのです。

 神は試練を通して信仰を試し、継承者に信仰が認められると、その契約は次世代に継承されるのです。