東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、さざれ石が展示されています。
日本では、古代より小石のことを「細石(さざれ石)」と呼んでいたそうです。また、日本には、巨石はさざれ石が成長して大きくなったとする巨石信仰があったようです。
日本の国歌「君が代」は、国の繁栄と平和を願う深い思いを込めた和歌だそうです。
日本には、八百万の神の信仰があります。たくさんの神々のようでいて、実は、一つのいのちで繋がり、宇宙を治めるひとりの偉大な神でもあります。
日本人は、太陽、月、星などの天体や、大地から生まれ出る作物、山や川、水や火、木や石など、自然界のあらゆるものにいのちが宿っていると考えていました。人や鳥や魚や獣などの生き物のいのちだけではなく、無機質に思える土や石などにも、いのちの宿りを感じ取っていたのです。
目に見えない神が、あらゆる姿かたちとなって、私たちにわかるように現われてくださっている、という捉え方をしている、という解釈もできます。
日本人にとって、神は身近な存在でした。身近というよりも、神のいのちに満ち満ちた世界に人間は置かれている。どこからでも、神を見ることができ、また、神の息吹に触れることができる、という暮らしであったように思います。
宗教ではなく、生活の中に神がおられ、ともに生きて来たというように捉えることもできます。
神棚や仏壇があり、ろうそくを立てる、という儀式的な行為もありますが、それを宗教として捉えるのではなく、生活の一部として、当たり前の所作として、地域でまた各家庭で受け継いで来ました。
君が代の和歌の解釈は、いろいろあるでしょうが、国歌として捉えるならば、「天皇が治められる大和の国は、千代も幾千代も続き、さざれ石の臣民が天皇の栄えを願い、また、天皇が国民の安寧と平和を祈って、一つの巌のような堅固な国体となり、天皇と臣民の大和民族の国がとこしえまでもありますように。」と解釈することもできます。
日本国は、天皇と臣民が慈愛と敬愛によって結ばれ、一つの家族のように、精神的結びつきの強い国体でした。
天皇の存在は、一人ひとりの国民の心を一つにする特別な存在でした。すべての国民は天皇の臣民、天皇とともに生きる民、すなわち、神の子とされる天皇に精神的に結ばれた民だったのです。
天皇を神の子と位置づけることで、日本民族は、神に仕えていたと言えます。
「私は無宗教です。」と答える日本人は多いですが、遺伝子には「神を恐れる」という概念が刻まれています。近代の歴史で、神の存在が封印されてしまったので、魂の記憶の深層にある謎の正体を「神」と名づける人は少なくなっているだけです。
宗教ではない、目に見えない生ける神、木々の葉擦れや川のせせらぎ、鳥のさえずり、蝶の舞など、目で見るもの、耳で聞くもの、肌で感じるもの、五感を使ってあらゆるものにいのちの気配を感じてきたのです。
日本人たちが忘れてしまっても、神は、神に仕える者を残しておられました。
日本列島の各地にある神社仏閣では、伝統を守っていました。
天皇陛下は、宮中祭祀を執り行い、日々の祈りを続けておられました。
そして、魂が深い眠りについた日本国民には、日本国家「君が代」が残されていました。
長い歴史の間には、多くの過ちもありましたが、2600年間にわたる皇統が維持されて来たことは、奇跡です。また、天皇に対する国民の意識の根底にあるものも残されています。
天皇には、国民への慈愛が、国民には天皇への敬意と皇室への誇りがあります。
近代化に伴い、日本国も個人主義の社会となりましたが、目に見えない大いなる力にへりくだり和の心を重んじ自然から学ぶ大和魂の遺伝子を宿す残りの者たちがいます。
これらの魂は、巌となるさざれ石です。
まるで、一つひとつの魂が、ひとりの大和人であるかのように、沈黙の中でも意思を通じ合うテレパシーのような、霊的分子なのです。
さざれ石の巌を実際に見てみると、一つひとつの小さな石が、まるでノリでくっつけたかのように固まりになっていて、それが巌となっているのです。
キリスト教では、キリストの御霊を飲んだ人たちのことを、「キリストのからだ」と呼びます。頭であるキリストの御思いを受けて、それぞれがおのおのに分け与えられた御霊の賜物によって神の栄光を現わすキリストのからだである、と言っているのです。
同じ一つの御霊を飲んでいます。この御霊は、神の子羊イエスを死から甦らせた聖霊です。それゆえ、キリストのからだである一人ひとりもまた、聖霊の御力により一度死んでも死から甦り、キリストと同じ復活のからだで新しく生まれて神の子どもとされる、と聖書に約束されています。
大和民族の「ヤ・マ・ト」という音は、ユダヤ人には、「神の民」という意味の言葉に聞こえるそうです。
『日月神示』には、大和魂を救う、と約束されています。そして、石屋(フリーメーソン)もひっくるめて救うぞ、と言われています。すなわち、イルミナティに関わるユダヤ人たちも、ユダヤ人の時に我に返らせて、悔い改めの霊を注ぎ、神との和解を成就させる、ということらしいです。
大和魂は、神の御救いの御計画にあると、私は考えています。
大和魂とは、和の心に支配され、自然と調和し互いに和合して生きる魂。その中心には、自然を支配される生けるまことの神への畏敬の念があるのです。
神は終わりの時代に、2600年間続いた皇統にひとりの内親王を、日本国民にお与えくださいました。それは、大和魂を目覚めさせる導き手であり、神に愛される巫女です。
愛子様の存在は、忘れかけていた大和魂を呼び覚まします。宗教ではない信仰を回復してくださいます。残りの大和民族は息を吹き返すでしょう。
ひもが切れた凧のような魂が、繋がるべき現人神のような目に見える存在(神のみもとに帰る魂の正しい在り方を見せてくださる手本)を得たのです。天と地を繋ぐ天皇の祈りを会得する霊統の巫女です。
バラバラになっていたさざれ石(大和魂)は、和の心を回復すると、新しい弥勒の世で生きる、いのちを持つ小石となって一つに集まり、それは、とこしえの巌となるでしょう。
目に見える世界では、一つになる姿を見ることはできませんが、霊的世界では、一つひとつの大和魂が愛と祈りによって、互いに呼応し支え合い、信仰と希望と愛を育んでいると思います。
そして、いのちあるさざれ石の魂を集めて、神は、エデンの園の回復する千年王国で、永遠に生きる魂とされるのでしょう。
一つひとつの魂は、小さなものですが、みなが集まると、大きな神の家となるのです。神は、世界中の大和魂を、神の家に集められるでしょう。
大和魂とは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主(私たちを造り、私たちにいのちを与え、私たちを生かしてくださる神)を愛せよ。」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」の律法が刻まれた、心に割礼のある魂です。