弥勒の世とは、弥勒がこの世に現われて、あらゆる生あるものを救う平和な世界であり、また、人間だけではなくあらゆるものが共存する、仏教における理想的な世界です。仏教では、弥勒菩薩がこの世にくだって衆生を救うとされる世だそうです。
弥勒菩薩とは、釈迦の次に現われる未来仏で、釈迦の教えでは救われなかった人々を救済するとされています。現在は、天上界の兜率天(とそつてん)で修業しておられ、釈迦の後継者として、約56億7千万年後にこの世に現われ、人々を救済するとされている未来仏です。
聖書の神の御子イエスと、次に地上に来られる神の子羊キリスト・イエスは、これと同じような関係を表しており、私には、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と次に現われる未来仏の弥勒菩薩は、神の子羊イエス・キリストと再臨されるイスラエルの王キリスト・イエスを現わしているように思えます。
神のひとり子が人の子ナザレのイエスとして来られ、御霊による新しい人に生まれ変わって、すなわち、十字架で死に三日目に墓から甦って復活の神の子羊イエスとして天に上り、聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられました。そして、父なる神の御座の右の座に着座されました。
この世の終わりに、キリスト・イエスは、再び地上に来られ、悪霊と悪魔の子らを滅ぼして悪魔を縛ると、千年の間、王となって世界を治められます。キリスト者たちは、「千年王国」と呼び、その世界が地上に現われることを待ち望んでいます。
古神道の、日月神示にも、弥勒の世のことが書かれています。それは、草木も喜ぶ嬉し嬉しの世界です。
北方美人でほほ笑んでいるだけの善人、自分が良ければよいとする他者を思うことのない者の上っ面の平和は通用せず、真の平和をつくる者、平和を愛する者、そして、愛が心の中心にあり天に意識が向いている者たちのはいる世界。
弥勒の世は、この世の常識、価値観と逆さまの生き方、考え方でないと入口を見い出すことができず、この世の生き方、我良し(自分さえ良ければよい)は通用せず、すっかり改めることができた者が、この新しい弥勒の世にはいることができるとしています。
結局のところ、仏教の弥勒の世も、古神道の弥勒の世も、聖書の千年王国も、愛と喜びに満ちた平和な世界、同じ世界を見ているのです。
大和魂は、もともと神仏習合の信仰でした。ですから、同じ弥勒の世を目指していることとなります。
聖書には、その世界のことが書かれています。
古神道ではその世界の主権者の存在は明確ではなく、より精神的で、すべてのものが神の子として生きる世界のように感じます。神が主権者なのですが、神の姿は明らかでないのです。
仏教ではその世界の主権者は弥勒菩薩であり、憐れみの存在です。弥勒の世の有り様やその後に起こることは、聖書ほど明らかではないように思います。しかし、極楽と地獄に分かれるということは明言されています。
聖書には、千年王国の主権者が明らかにされています。
「人の子」となって来られ、世の罪を取り除く贖いの神の子羊として、罪の贖いの血(ご自身の血)を流された神の御子イエスが、聖霊の新しい創造を受けて、復活の栄光のからだ、「新しい人」となって天に上り、全能者からキリストの権威を授けられました。
「神のひとり子」は、「人の子」の時代を経て、御霊による新しい創造の「新しい人」となり、千年王国では「世界を治める王の王キリスト」となられます。
キリストを生んだ聖書の民ユダヤ人たちは、「エデンの園の回復」を待ち望んでいます。仏教や古神道が目指す「弥勒の世」、また、キリスト教がキリストの再臨によって始まるとする「千年王国」と同じ世界を、「エデンの園の回復の世界」として信じているのです。
日本人は無宗教と思われていますが、日本人の魂を育んだ仏教も古神道も、何とユダヤ教徒と同じ世界を、その信仰の先に見ているのです。宗教には縁がないと思って来た日本人の遺伝子には、ユダヤ人と同じ信仰の根があったのでした。自分たちの意識していないところで、実は先祖たちの信仰と祈りに守られて来ました。
聖書には、千年王国を治める方は神のひとり子であること。イスラエルは、神の民であり、神の御子はこの神の民の「イスラエル王国」の王として、天から来られること。
主権者である神の御子は、聖書の神のひとり子であり、エデンの園でアダムとエバと交わりを持っていたこと。
エルサレムで十字架につけられ、罪の贖いの血を流した神の子羊イエスが、地上に遣わされた救世主、唯一のキリストであること。そして、救い主キリストは、聖霊を与えて、滅びゆく肉の人を、死に勝利する新しい人「御霊によって生まれ真理に導かれる神の子ども」に造り変え、彼らをとこしえの神の民、すなわち、千年王国の主権者であるイスラエルの王イエス・キリストの国民とされること。
キリストの御霊によって、真理を悟る御霊の信仰を受ける者たちが、弥勒の世、千年王国、エデンの園の回復の世界にはいるのです。
すなわち、仏教の教義、古神道の教義、キリスト教の教義、ユダヤ教の教義など文字の律法によってではなく、生けるまことの神の御霊に導かれる霊とまことの信仰を生きる魂が、新しい神代の世界に入ることができるのです。
その正義の世界は、害する者はおらず、悲しみ、叫び、苦しみ、涙はなく、みなが和合して暮らす平和な世界です。
都には、神と子羊(キリスト)の御座があり、しもべたちは神に仕えています。御座からは、あらゆるものにいのちを得させるいのちの水が流れ出ています。それは、水晶のように光る川です。
都の大通りの中央を流れており、川の両岸にはいのちの木があり、諸国の民で「いのちの書」に名前がしるされている人たちは、都に入っていのちの木の実を食べて、永遠のいのちを得るのです。
大和魂が目覚めて向かうのは、現象の世界の向こうにある、信仰の世界です。それは、朽ちて滅びるこの世とは異なります。とこしえに存在する愛の世界です。
人間の努力によってではなく、魂の声に素直になって目に見えない神の御霊に導かれて辿り着くいのちを得させる信仰の世界です。世には、いのちを得させない信仰を与えるものが多く存在します。しかし、大和魂は偽物を見分けて、真理の御霊によって、永遠のいのちを得るのです。
人が「天国」と呼んでいるあの世に似た世界が地上に現われます。しかし、これは千年の間の世界であって、天国ではありません。
千年の時の後で、解き放たれたサタンは、諸国の民を惑わし、王のいるイスラエル王国を取り囲み、神の民を滅ぼそうとして、都を取り囲みますが、天から火が降って来て、それらの者はすべて焼き尽くされます。
こうして、光の魂と、神に敵対する闇の魂とは、はっきりと分かれます。
すると、大きな白い御座が現れて、地も天もその御前から逃げ去り、あとかたもなくなります。神と神の子羊とが、最後の裁きをされるのです。
死んだ人々も、生きている人々も、御座の前に立ち、裁かれます。
「いのちの書」に名前が記されている人々は天の御国に入り、「いのちの書」に名前の記されていない人々は、サタンや反キリストや偽預言者たちのいる火の池に投げ込まれます。
すべての魂は、永遠の場所に納められます。
新しい天と新しい地とが、永遠のいのちを得た神の子どもたちのために用意されています。
現在、天には、神の御座があって、御使いたちが仕えています。神の御座の右の座には、悪魔に勝利し、悪魔に囚われた魂を神の子羊の血で買い戻した神の子羊キリスト・イエスがおられます。
そして、地には、肉なる人々が住んでいます。神のおられる所を第三の天と呼び、第二の天には霊的存在がいます。堕天使たちのいる宇宙です。第一の天は地球を取り囲む大空であり、太陽、月、星がある人間にとっての天です。
私が想像するに、新しい天とは、神の御座と神の子羊の王座があり、御使いたちが仕え、子羊の花嫁である十四万四千人も子羊とともにいるでしょう。
天は平面的ではなく、その下には、何層にも分かれた携挙者や殉教者たちの住まいがあるでしょう。天は、下に向かって深く広がっているでしょう。彼らは天の天におられる神を仰いでいます。
この新しい天に住む人々は、子羊の婚宴に招かれた信仰の勝利者たちです。召された者、選ばれた者、忠実な人々です。
神の家の土台は神の子羊イエス・キリストです。
「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、気、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この(試みの)火がその力で各人の働き(その人の信仰)の真価をためすからです。
もしだれかの立てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの立てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(コリント第一3:12-15)
「金、銀、宝石」は神殿や宮殿をたてる素材であり、「木、草、わら」は民家を建てる素材です。新しい天に住む人々は、金、銀、宝石の信仰を持ち、その行ないを全うした魂です。
新しい地には、木、草、わらの信仰で揺れ動きつつ、何とか信仰を選び取ることのできた魂たちが住まいます。この地もまた平面的ではなく、その信仰の純度により、同じような信仰の魂が同じ平面に住まうことになるでしょう。
それゆえ、新しい天地は、天も地も一つである一体感があります。同じ平面に信仰の度合いの異なる者は存在しないからです。
そして、新しい地は、喜びと楽しみに満ちた平和な世界です。
私はこのように解釈しています。
それゆえ、新しい天に住まいを望む人々は、目を覚まして、子羊の婚礼に招かれる魂にふさわしい歩みをしなければならない、と思うのです。