ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

決断した行動にともなって開かれる

 

 キリスト教会の奉仕者であったとき、教会が救いのすべてのように思っていました。

 教会から離れて行く人たちの魂の行き先を思って悲しみと恐れを抱いていました。

 

 信徒に戻った私は、ある教会にいた時、霊的な戦いの中にいました。権威に服すれば難なく過ごせるのに、私の霊は服することを拒絶します。私は、教会の中の異端児のようでした。見た目は従順そうに見えても、心が伴っていないことは、教職者たちから見て明らかだったでしょう。

 

 神に従いたいという気持ちは無くなっていません。むしろ、その思いゆえに、葛藤していたのです。

 そして、私の霊はいつも波立っていました。魂はうめいています。教会から出ることには勇気が要ります。自ら御救いを放棄する行為だと思っていたからです。

 しかし、私の霊が息絶え絶えになったときに、これでは死んでしまうと思いました。霊的な閉塞感があり、息を吹き返したいと願いました。これが、私の魂の本音でした。

 

 神に苦しみを訴えながら、神の立てられた権威に従えない私が神にさばかれるのではないかと恐れが伴い、正直な祈りができません。

 しかし、とうとう自分に正直になって、教会を出させてください、と祈り始めました。神の許可がなければ、出ないと決めたからです。また、教会を出る事に恐れを抱いていた私に、教会を出て行き先のわからない放浪者、家なき子になる覚悟ができたからです。

 

 それで、主が出ることを許されるならば、主御自身が私に、出る日を知らせてください。そして、その日に出ることができますように、と神に丸投げしました。

 毎日祈りました。「今日ですか?ちゃんと、神の正しい導きを知ることができるようにしてください。」霊魂こめて祈りました。

 

 ある朝祈っていると、はっきりと「今日、出なさい。」と語られました。脳内にこだます響きの振動のように与えられた思いです。それは、月曜礼拝に出かける前のことです。

 すぐに、脱会の意志を伝える手紙を書いて、月曜礼拝に出席し、礼拝が終わった後で、その日の説教者である副牧師に渡しました。

 

 「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。

 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。

 そうすれば、主はあなたの道を真っすぐにされる。」(箴言3:5,6)

 この聖句の内容が、その日のメッセージでした。

 

 教会を出た後で、私は所属する教会を捜しました。しかし、心は当てもなくさまよいます。その間、様々な教会の礼拝に出席して、転会するための教会を捜していました。

 やっと一つの教会に1,2カ月留まることができました。そして、ある礼拝メッセージの中で語りかけを受けました。そして、ひとりで礼拝する事を決めたのです。

 

 それまでも、教会に属さなければならないと強迫観念に押しつぶされそうになりながら、頭の片隅には、自分ひとりで神の御前に出て礼拝してもいいのではないか、と揺らいでいました。

 ところが、決断しました。決断してからは、心が揺らぎません。クリスチャンの兄弟姉妹からは心配されましたが、それでも、心は凪でした。

 

 重荷を感じていたユダヤ人のことを学べる場所に導かれました。すでに、ブリッジスフォーピースのティーチングレターを数年前から送っていただいて学んではいましたが、イスラエルのメシアニック・ジューと繋がりのあるこの集いは多くのことを学ばせてくださいました。

 

 ブリッジスフォーピースのハイナイトにも参加し、また、JCJEの集いにも参加し、学び続けました。

 

 家でひとりでささげる礼拝は、教会のプログラムと同じような流れです。

 賛美、献金、聖餐式、祈り、メッセージ、感謝の祈り。

 自分でメッセージをしているはずなのに、いつも聖句から神のメッセージを受け取ります。私が思いつきもしない事を、神は、御霊によって啓示を与え、隠されていることを知らせてくださいます。

 あれ、本当に神は私を養ってくださるのだ、と思いました。教会の中に養いがあると思っていた私に、この礼拝も教会の一部であると言われているようでした。

 

 礼拝では、日本のキリスト教会の祝福のため、ユダヤ人の救いのために祈っていました。しかし、徐々に祈りの対象が変化していきました。

 キリスト教会がイスラエルに対して正しい理解をするように、ユダヤ民族の祝福となるように、そして、ユダヤ教を土台とするメシアニックジューのために祈るようになりました。

 

 ユダヤ人の学びが進む中で、わかって来たことがあります。

 キリストを信じるユダヤ人には、二種類ある事を知りました。

 ユダヤ人の伝統に立つメシアニックジューと、ユダヤ人のしきたりから外れて異邦人と同じように生きるユダヤ人ビリーバーです。

 初めは、ユダヤ人はユダヤ人の伝統を守るからユダヤ人なのではないか。異邦人のように生きるユダヤ人ビリーバーは、ユダヤ民族の契約から外れて異邦人に数えられるのではないか?彼らは、ユダヤ民族の契約の中に入らなければならない、と心配しました。

 

 しかし、おのおのに神の御計画があって、それぞれの働きがあることが分かって来ました。

 ユダヤ人ビリーバーは異邦人の時に完成するユダヤ人です。携挙する人たちもいれば、殉教する人たちもいます。

 メシアニックジューは、異邦人の時が完成した後で、ユダヤ人の時に働く人たちであって、その時にユダヤ人の救いのために殉教する人たちなのだと知りました。

 

 ユダヤ人への祈りは、イエス・キリストを信じていないユダヤ人の救いのための祈りから、ユダヤ人ビリーバーとメシアニックジュー、すなわち、すでにキリストを信じているユダヤ人の信仰の強めと家族の救いのための祈りへと変わっていきました。

 

 日本のキリスト教会への祈りは、日本人の御救いを執り成す祈りに代わりました。

 道路から神社やお寺で手を合わせている日本人を見かけると、あれは偶像崇拝だ、と忌むべきものを見たかのように苦々しく思っていた私の心に変化が現れました。

 神仏の前で手を合わせる日本人の魂が愛おしく感じられるようになったのです。

 そして、心の中で祈りました。

 「主よ。日本人は真理を知りません。でも、救いを求めています。あなたが彼らに出会ってください。彼らの純真な信仰に光を見せてください。」

 

 私は、日本人の魂が救われるように、と祈りの方向が日本人の魂に向くように変えられていきました。

 神は、一歩一歩進む中で、少しずつ心に変化を与えて、より具体的な働きへと私を導かれたのです。

 

 教会の牧師に大反対されて、押し進んだ献身の道。

 しかし、私は頑なでした。この道しかないように、状況が閉じられて行くのです。家族からは勘当状態で家に帰る道はなく、退職した会社の寮は出なければなりません。教会の一室に居候する私は、入学願書を提出した全寮制の聖書学院に行くしかなかったのです。

 

 「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。

 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(ペテロ第一5:2,3)

 

 この召命のみことばとともに神学校に入学し、三年後の卒業式に、理事長夫人から「姉妹への神のことばがあります。」と言われ、召命と同じみことばをいただきました。

 神は、卒業の際に、教会の牧師に否定された、私の召命のことばを思い起こさせてくださいました。

 

 様々な悲しみや痛みや嘆きがありましたが、神は、みことばをもって励ましてくださいました。

 

 「天の神御自身が私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。」(ネヘミヤ2:20)

 神が私にお与えくださった、使命の道を歩むための支えのみことばです。

 

 神は不思議な方です。教会に属さなければ、また、教職者の立場を得なければ、召された者ではない、とは仰せられません。

 神には、神の御計画があるようです。