教会から出た後で、一年ほどして肺結核で入院しました。四人部屋の病室の私以外の三人は創価学会員です。霊的守りに徹し毎朝、結核病棟にある小さな図書室に行って、昼食の時間まで聖書を読み祈りに専念しました。
また、これらのことは教会を出たことによる神の裁きなのかと不安になりながら、意識は宙をさまよっていました。神は悪くないのです。私の咎がこの状況を引き起こしているに違いない、と思っていました。
自分が悪いと認めながらも、「どうして私は結核になったのですか。」と祈っていました。しかし、ある時から、「何のためにこの状況なのですか。」と祈るようになると、神のことばがありました。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」(ヨハネ13:7)
神のことばは叱責ではないので安心しました。ホッとして心にゆとりができると、同室の三人とも会話ができるようになりました。初めは創価学会の霊を警戒していたので、なるべく目を合わせないようにひっそりと過ごしていました。しかし、少しずつ話すようになり、持参した紅茶で一緒にお茶の時間を持つようになりました。
いろいろな話をしました。70代と90代のふたりの人とは打ち解けて話をし、子どもの頃の話や、亡きお母さんの話を聞かせてもらいました。もうひとりの人は私に嫌がらせをし、ほかの学会員の人とも親しくならず交わりを避けました。
年老いて母親はすでに墓の中なのに、ふたりとも「おっかさん」のことが鮮やかです。記憶というよりも、現実に今母親とともにいる子どものようです。
創価学会を恐れ、キリスト教との間に設けていた壁は私自身の妄想でした。同じように母親を慕い、同じように幼い頃を生きていた、同じ人間であることに気づきました。同じ人間なのだ、と当たり前のことを、驚きをもって発見しました。
世の滅びを知るキリスト教会の狭い世界では、世に救いがあるとは考えません。キリストに繋がっていない者はみな滅びなのです。
世の人のお葬式に参列することも、お墓参りも仏教のイメージであって、異教の習慣に関わるようなうしろめたい気持ちがありました。日本人として生まれながら、日本人であることを拒絶していたのです。
みなが同じ時を生き一つの病室でともに過ごす人間同士なので、そんな鎧は脱ぎました。同じように喜び、同じように笑って、毎日おしゃべりして過ごしました。
この体験により、宗教によって異国人になるわけではない。同じ日本人なのだ、と魂に記憶しました。
私たちは、宗教の話もしましたが、これらの創価学会の人たちは宗教というよりも、幸せであることを願っているということを知りました。だれもが幸せでありたいのです。宗教を広めることに関心があるのではなくて、自分も幸せ、あなたも幸せ、という幸せの関係が喜びであり、双方の魂の安らぎであることを知りました。
この発見は、大きな発見でした。私のキリスト教概念をひっくり返し、魂に意識が向くようになりました。宗教の枠を超えて、魂の素直さや純粋な信仰に御救いを見る気がしました。
私もリラックスし、おふたりもありのまま、魂が慰められる関係が構築されると、創価学会員なのに、「キリストが一番。キリストの天国の下に学会の天国がある。学会は二番目や。」と言って湧いていました。可愛らしい魂でした。
ひとりで礼拝するようになって二十年以上が経ったころ、キリスト教会では噂されないような都市伝説的なことに触れるようになりました。
日本から救い主が起こるという話です。心に留まりました。
日ユ同祖論といって、日本人とユダヤ人の先祖が同じであるという考え方があることを知りました。しかし、このことに関しては素直に同意できませんでした。天皇に関してはそうかも知れないけれど、日本人がユダヤ人の血をもっているとは考えられませんでした。
そういった、キリスト教会ではおそらく危険視されることや霊的なことに関心を持ち始めました。そして、そのことが本当なのかどうか知りたいと思いました。
教会の中では話題にされないような真理を、実はほかの人々が知っているということを知るようになりました。
キリスト教会だけが真理を知っている、聖書だけが真理の書だと信じていたキリスト教の教義は、私の中で崩れて行きました。
聖書には書かれていない真理があると知るようになりました。聖書に隠されている真理が、神道や仏教には明らかにされている、ということです。
たとえば、仏教の教えの中にある輪廻転生。古神道の神示に明らかにされている大和魂の救い。魂という観点での御救いに思いが向くようになりました。
古神道とユダヤ教の関係性を知ると、大和民族とユダヤ人の関係が見えて来ました。日ユ同祖論は、全部の日本人に当てはまるのではなく、一部の日本人、おそらく、古き日本の大和民族のことをさすのではないかと思いました。
日本国では長い間封印されて来ましたが、一部の人たちの間では、天皇や皇族、古神道系神職などの先祖は、渡来して来たユダヤ人ではないかと、以前から密かに噂されていました。
私自身、大和民族は、渡来して来たユダヤ人たちによって建国された神の国民である、と思いました。
大和民族がみなユダヤ人の血を引いているのかというと、そうではなく、渡来して来た神を恐れる敬虔なユダヤ人たちが主権を握って、先住民をも一つとなる国をつくったのだと思います。その民族の中心には、目に見えない生けるまことの神の祭儀がありました。
神は、出エジプトしたユダヤ民族とともにエジプトを出た異国人もあわせて、神と契約を結ぶイスラエル民族とされました。
同様に、ユダヤ人とともに神の民となった日本列島に住む先住民も含んで一つの国となったのが大和民族だと思います。そして、そのあとで大陸から渡来して来た異邦人も大和民族の中に加わったのだと思います。
少しずつ隠されていたことが見え始めると、日本人の核となっている大和民族が気になって来ました。日本人のすべてが大和民族の子孫ではありません。
ユダヤ人の血を受け継ぐ日本人は日本人の約1割、縄文人の血を受け継ぐ日本人は日本人の約2割、大和民族の血を受け継ぐ日本人は日本人の約3~4割とされています。日本人の6~7割は大和民族の血を持っていないということになります。
しかし、大和民族特有の大和魂は、日本民族の中にもあります。
割礼を受けた異国人がイスラエル民族に数えられるように、大和魂を受け継ぐ日本人は大和民族に数えられるのかもしれません。
キリスト教会の中にいたときは、キリスト教会に集っている人だけが救われると思っていました。
しかし、黙示録に書かれたキリストの手の中にある教会は、七つの御霊の教会とあります。キリスト教会ではなく、御霊の教会です。
御霊という存在がクローズアップされました。キリストを信じれば救われると思っていたのが、聖霊を受けなければ神の子どもになることなく、肉のままであることを知ってしまったのです。
信仰にはしるしが伴います。信仰告白には、目に見えない聖霊の証印が必要なのだと思いました。心の割礼です。クリスチャンたちの承認を受けても、天で認められていないのならば、人間の自己満足にすぎないと思いました。
私は、確実な救いを求めました。自己満足の救いではなく、天にはっきりと名が記される確かな救いです。救われたと喜んでいたのに、行ってみたら実は自分の名前が天にない、なんていうむなしい結末を迎える贋作の信仰では満足できません。そんな恐ろしいことはあってはなりません。
少しずつ知ってきた魂の救いと、聖霊とが重なり始めました。すると、あの入院中に出会った創価学会の人たちの魂の愛らしさ、純粋な喜びを思い出しました。
生けるまことの神の信仰は、あのような純粋な魂、素直な魂の中にあるのではないのか、このような魂が聖霊の住まいなのではないのか、と知識ではなく霊によって捉えました。神と繋がる信仰、神に受け入れられる信仰は、実は、もっと幼子のように単純で真っすぐなもののような気がします。
魂で救いを見るようになると、神はあちらこちらに真理の種を仕掛けられていると思うようになりました。そして、素直な魂がそれを見いだし、また、見いだす者に神は御自身を現わされるのでしょう。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒17:24,25)
神は、宗教の中に住まわれるのではなく、それぞれに分け与えた真理に生きる魂を、救いに招かれるように思います。
「あなたがたが主によって祝福されるように。
主は、天と地を造られた方である。」(詩篇115:15)
私は、生けるまことの神は、大和魂に大いなる祝福を用意しておられると思うようになりました。