昔の日本人は、日本国を「神の国」と信じていました。
また、天と地を結ぶ祭祀である天皇を、王権の聖性と尊厳を内外にあらわす「スメラミコト」と呼ぶ時代もあったようです。
日本人にとって、天皇は社会的霊的権威を持つ存在です。
天皇の存在は、日本列島の各地域の日本国民の心を一つにするものであり、その玉座は、皇統により保たれてきました。
近代化に伴い、日本国は、ほかの国々のように民主化して、天皇は日本国の象徴とされました。天皇制度の中に、古の大和民族から受け継いだ日本人の在り方が残されており、日本国を形成した大和民族の大和魂が残されているようです。
日本国が、ほかの国々と決定的に異なることは、「天皇陛下」の存在です。
天皇は、日々神の御前に出て、国民の安寧と幸せを祈っておられます。日本国の中心に皇室があり、日本人の精神の中心に皇室の祈りがある、という珍しい国です。しかも、その歴史は長いものなのです。
日々祈る祭祀としては、世界にもう一人、ローマ教皇がありますが、様々な国、様々な民族、様々な言語のカトリック信者のトップとして、イエス・キリストの御名によって世界平和を祈ります。
しかし、日本の天皇は、古神道、神道、仏教、キリスト教、カトリック、そのほかの宗教、無宗教の国民、宗教の壁をつくらず、すべての日本国民の安寧と世界平和を祈られるのです。
昔は、今のように仏教と古神道は別ものではなく、一つの信仰でした。神仏習合の信仰が大和民族の大和魂を培い、一つの民族、一つの国民として成り立たせ、守って来たのです。
日本人は、一つの共通の言語の日本語を話し、一つの民族、日本民族として形成されました。その中心には皇室があります。
日本人の魂の喜びと敬愛と平安とは、皇室の存在によって守られてきました。神武天皇の代から皇統連綿、126代も続く日本の皇室は、日本だけではなく、世界の国々からも尊敬される存在です。
世界に残された王室の中に、「エンペラー」と呼ばれる王はなく、日本の天皇おひとりが、国際社会で唯一「エンペラー」と呼ばれるのだそうです。私は、そのことを知りませんでした。ローマ教皇よりも権威が上なのだそうです。
天皇は、称号にふさわしい霊統を受け継いでおられます。天地万物を造られた生けるまことの神の前に出て、天と地とを繋ぐ、唯一の仲介者です。日本人の中で、もっとも祈りをされている血統なのです。
神のひとり子イエスが、イスラエルに降誕されて、罪の贖いの十字架のみわざを完了された約二千年前に、神と民の仲介者として神の御前に立つ祭司の職務は、レビ族から仲介者である神の御子キリストに新しくなっています。そして、キリストのしもべたちが受け継いでいます。
神のひとり子イエスが降臨される以前から、日本列島では、霊なるまことの生ける神の祭儀がされていました。
日本人は、天皇に献上することを誉れとし、技術の腕を磨いていました。日本人の仕事が丁寧なのは、そのような古の先祖の遺伝子を受け継いでいるからでしょう。
先人の心は、天皇を目に見えない神のように仰いでいたのでしょう。有難い存在であり、天皇に認められることは身に余る光栄、もったいないことだと、日本人は、空の上の存在である天皇に身を低くして、へりくだりを学んでいました。日本国民は、神の国の秩序を学んでいたのです。
目に見えない神への祭儀が、日本国民を秩序ある民族として育てたように思います。
二つに引き裂かれた仏教と古神道。
仏教は、人の正しい生き方を追求します。仏教の輪廻転生の思想は、日本人の心を低くします。今体験している苦しみは、前世の業によると捉えるのです。自分のうちにある魂が、前世で犯した業(ごう)すなわち、過去の行為は、良い行為も悪い行為も必ず自分に帰って来る、というカルマのつけを払っているのだ、と考えるのです。
それゆえ、魂は報いを知っています。良い行ないをすればよい報いを受け、悪い行ないをすれば罰を受ける。人の魂はカルマを背負っているのです。
業を知る者は、他人のせいにはしません。親のせいにはしません。神を恨むことはありません。なぜならば、現在の自分は忘れているが、かつて別の人生を送っていた魂が犯した罪の刈り取りを背負わされているのだ、と考えるからです。
因果応報、これはひとりの人の生涯のことだけではなく、何度もくり返し生まれてきた魂に当てはまる考え方なのです。
やがて、魂は閻魔様に裁かれて、業の深い人は地獄へ、カルマを解消した人は極楽に行くと考えるのでしょう。
日本人は、もやもやとした死後にある魂の裁きを恐れて、救いを求めたことでしょう。それが、カルマの解消を望む信仰となるのでしょう。
古神道の信仰は、仏教にはない、神への信仰です。
罪を穢れ(けがれ)と呼び、祓い(はらい)を必要とします。穢れをお祓いすることで、神との関係を維持します。
罪穢れは本来あるべき姿にブレが生じることであり、その結果として日常生活に不具合が起こる。その不具合を取り除くのがお祓いということでしょうか。
伊勢神宮では、20年に一度「式年遷宮」で社殿をそっくり建て替えます。古い社殿を壊して、隣の更地に同じ形の社殿を新しく立て直すことで、伝統技法などを後世に伝え、また、物そのものは新しく維持しつつ、伝統の形と教えは守り続けています。
「変わらないために、あえて変わり続ける」姿勢を「常若の精神(とこわかのせいしん)と呼ぶそうです。
日本人は、数世代にわたって軸を大事にしつつ、価値がブレずに永く生き続ける文化を守っているのでしょう。日本人は一貫した精神性を重んじる民族なのです。
現在の日本人は忘れていますが、昔の日本人は、日本国が神の国(神の御目が留まった国)であって、日本人は目に見えないとこしえの生けるまことの神に生かされている民族であることを知っていたのでしょう。
世界が揺り動かされると、日本民族は目を覚まして、忘れていたアイデンティティーを再び確立させることでしょう。
そして、かつての大和民族が神の祭儀を重んじ、天皇を中心に目に見えない神に仕えたように、神を意識する魂は、集合意識により、まるでひとりの人であるかのように、いのちの根源であられる神に仕えることになると思います。
「神である主は、私(日本人)に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼び覚まし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。」(イザヤ50:4,5)
使命に立つ日本人は、終わりの日のために、光に目を向けて備えましょう。