ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

光の道を進む魂と闇の道を進む魂とに分かれる

 

 2024年頃から、人類は光と闇に分かれると言われてきました。

 2025年には、それぞれの魂が永遠の道を定める時が来たと言われました。

 2026年には、人類は、光に進む魂と闇に進む魂とにはっきりと分かれ、光の魂と闇の魂とは異なる次元を生きるようになる。もはや、光が闇に、闇が光に変わることはない。同じ空間に存在していても、捉え方が異なり、会話が成立しないほど別次元を生きるようになる、と言われています。

 

 聖書の黙示録に書かれた封印はすでに解かれていました。

 第一の封印の白い馬は、神の霊であり、地上に生きる人々の覚醒が始まったのでしょう。

 第二の封印の赤い馬は、争いです。現象として起こる戦争もそうですが、互いに訴え合い憎み合うSNS上の中傷批判も、その現われでしょう。霊的な殺し合いなのです。

 一般的な人間は、殺し合いというと、肉体の死を想像しますが、神を知る人は、霊的な死を考えます。

 

 肉体の死は終わりではなく、霊的死は終わりを意味します。魂が神と結びついていれば、肉体の死によって、永遠のいのちを失うことはありません。かえって、魂は、肉体の死によって神のみもとに帰り、真の愛と自由と喜びと平安とを体験するのです。

 霊的死は、肉体の死の後に訪れる「最後の裁き」によって決定される第二の死、すなわち、「永遠の死」のことです。永遠の火の池(地獄)に投げ落とされる魂だということです。

 

 霊的殺し合いは、現象の戦争よりも恐ろしいものです。現象の戦争は、永遠のいのちを持つ信仰者からいのちを奪うことはできません。彼は、肉体に死んでも、魂は神のみもとに帰って永遠に生きるからです。

 しかし、霊的殺し合いによって殺された魂は、「永遠の死」が定まった者として生きることになります。肉体は生きていても、霊はすでに死んでおり、その人の魂は永遠の滅びが定まるのです。もはや、悔い改めることはできません。すでに、魂は火の池の中にいるのですから。

 

 「永遠のいのち」、すなわち「真理の御霊」を与えるキリストの権威を持つ神の御子イエスは言われました。

 「(肉体の)からだを殺しても、魂を殺せない人(鼻から息をする神の被造物である人間)たちなどを恐れてはなりません。そんなものよりも、魂もからだも、ともにゲヘナ(地獄の火)で滅ぼすことのできる方(創造主であり裁き主であられる神、聖なる神の御霊)を恐れなさい。」(マタイ10:28)

 

 「臆病者(外部からの圧力によって容易に信仰を手放す者)、不信仰の者(御霊を信じない者)、憎むべき者(悪魔の子、反キリストの霊に支配される者)、人を殺す者、不品行の者(姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者〈酒に溺れ酒に依存する者〉、そしる者〈誹謗中傷する者〉、略奪する者)魔術を行なう者、偶像を拝む者(神から出ていないものを、神として崇め仕える者)、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池(地獄)の中にある。

 これが第二の死である。」(黙示録21:8)

 

 霊的な殺し合いは霊的死に至り、生きながら第二の死の宣告を受ける、死んだ魂となるのです。

 伝道者(知恵者と呼ばれたソロモン王)は言います。

 「あなたの心の赴くまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」(伝道者11:9)

 

 人は、自由意思によって、自分自身で自分の道を選ぶことができます。

 しかし、その自由には責任が伴います。その人のすべての行ないは裁き主の前に出て申し開きをすることとなります。そして、神の審判により、永遠の場所が定められるのです。

 

 人の道理を悟った伝道者は言います。

 「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:13,14)

 

 「(伝道者が)すべてに耳を傾けて得た結論。

 『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。

 神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」(共同訳)

 

 天の御国に入って安息を得る魂は、神の御霊とともにあった魂です。光を愛し、神の御霊に教えられ、御霊に導かれていのちの道を歩んだ魂です。

 

 真珠を選別する人は、最初に本物の真珠をよく見ると聞きました。本物の良い真珠に触れることで、そうでない物が自ずとわかるらしいのです。

 銀行員は、本物のお札に日々触れているので、偽物のお札を見分けることが、一般の人よりも容易でしょう。

 

 御霊とともにいる人は、そうでないものに違和感を感じるでしょう。

 信仰を持っていても、御霊とともにいないならば、神からのものとそうでないものとの見分けはつきにくいと思います。

 それゆえ、他人からの情報によって判断します。もし、その人が信頼する権威者が、霊的に神に受け入れられない間違った情報を流した場合、道をそれる事となります。

 

 自分の魂は、永遠のいのちか、永遠の死か、どちらかの道を行くことになるのです。

 自分の魂は、自分で守るほかありません。神は、私たちに、もうひとりの助け主を遣わしてくださいました。霊の事は、御霊によらなければわかりません。

 御霊を心に迎えて、御霊に聞くことが、いのちを守る唯一の方法です。御霊に聞くならば、御霊に従うことが大切です。聞いても従わないのは、自我が強いからです。それは、不従順の罪に問われます。その結果、神を信じなかった、神に従わなかったという結末になります。

 

 いのちの道は、悔い改めて身を低くし魂をきよめ、魂の傷を御霊にゆだねて御霊に癒されながら、神の愛を知り、神とともに歩む道です。

 

 御霊に教えられる人は、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活から遠ざかり、光を求めて、正しい生き方へと導かれるでしょう。

 御霊は、永遠のいのちです。私たちを新しく神の子どもに造り変えるために、私たちを昼間の子らしく矯正し訓練してくださるのです。

 

 パウロは言います。

 「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

 私(パウロ)は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

 しかし、御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。(違反者となることはありません)

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 しかし、御霊の実(御霊がかたち造ってくださる神の子どもの性質)は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉(自我)を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(私たちを責め立てる債務証書は、イエスの十字架に釘付けされて、イエスがその負債を完全に支払われて無効にしてくださいました。私たちの罪は赦されたのです。私たちを罪に定めるものはないのです)

 もし私たちが御霊(神の霊、光)によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」(ガラテヤ5:15-26)