神は、御自分の聖徒たちを、天の御国にふさわしい神の子どもに造り変えられます。
人はみな、生まれた時は、肉の人です。肉体があるので、病気もしますし、痛みや苦しみを体験します。物質のからだは時間や空間に拘束されており、不自由です。その上、罪の性質を持っているので、不自由なのは肉体だけではなく、魂も自由ではありません。
肉体に慣れ親しむ魂は、人間はこんなものだ、と達観します。悟った人のようでいて、実は、真理を悟っていません。
不自由さからの解放を求める魂は、自由の記憶を持つ魂なのでしょう。こんなはずではない、これは本当の姿ではない、と思っているのです。
頭で考えることよりも、心で感じることのほうが、本質を突いているのです。それは、肉体を持たない自由な魂の感覚だからです。
神のひとり子は、肉体の姿で「人の子」となって地上に来られました。肉なる人を救うために、ご自身が肉なる者となられたのです。
人の魂は、罪の性質を持つ肉体の誘惑に勝利し、時間と空間の拘束のある不自由な肉体という牢から解放されなければなりません。
自分の肉体が魂を拘束する牢であるとは、何によって知るのでしょう。この牢から解放されるのは、死によってでしょうか。
魂を自由にするために、人が死んでも、実は、自由にはなりません。自由にならないどころか、かえって、永遠に欺きの牢に繋がれることとなります。永遠の牢は、火の池の中です。それならば、肉体の牢のほうがましです。
人を造られた神は、永遠の牢に投げ入れらる魂の苦しみをよく御存知です。そこは、天から追放された堕天使長、妬む者、欺く者、敵対する者、呪う者、破壊する者、悪魔と悪霊どもの永遠の住まいだからです。
永遠の牢に投げ入れられる魂は、永遠に悪魔のなぶり者となるのです。愛も喜びも楽しみも親切も平安もありません。昼も夜も一日中、そして、痛みとうめきと叫びによって永遠に心休まることはありません。肉体はないはずなのに、魂は痛み苦しみ続けます。
この永遠の状態を、滅びと呼びます。
神は、人々の魂を救うために、御自身のひとり子に肉体を造って、天から地上に遣わされました。神の御子イエスは、肉体の人の魂を救うために、みずから人と同じ肉体を着たのです。
神の御子は天では霊体でした。時間や空間の拘束はありません。思いはそのまま伝わり、すべてはひとつでした。
肉体に入った神の御子イエスは、人が造られる以前、天地が創造される以前から父なる神のみもとにおられた方です。アダムが造られる時、父なる神とともに創造された神のひとり子です。
永遠の昔から存在しておられた神のひとり子が、神の御子の栄光の御姿を捨てて、肉体を持つ人のひとりとなられたのです。神のひとり子は、人の子となって、人を救うために来られました。
肉体の拘束の中にあっても、罪の性質を抱える肉体の指示に従うことはされませんでした。イエスの霊は常に、天の父なる神とともにあったのです。肉体は、神との隔てとはなりませんでした。神の御子イエスは、肉体の持っている罪の性質に打ち勝たれました。肉の要求ではなく、霊魂(神の御霊の教え)によって歩まれたのです。
肉体の持つ罪の弱さに打ち勝ち、自分の感情を神にゆだね、イエスは誘惑を仕掛けて来る数々の敵をも支配して、悪魔に勝利されました。
蛇の言葉に騙されて神の命令に背き、罪の性質を宿したエバの子であるカインは、自分の不義を悔改めるのではなく、弟の正しいのを妬んで、弟を殺しました。
「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。(罪はあなたを征服しようとして、いつも誘惑しかけて来る)
だが、あなたは、それを治めるべきである。(誘惑に惑わされず、自分を戒め正しい道を歩むべきである)」(創世記4:7)
神の忠告は、カインには届きませんでした。
エバの子孫である人類は、カインの道を歩み、世は堕落しました。滅びの子にふさわしいものとなってしまいました。
滅びに向かう世界に、罪の誘惑に打ち勝つ「人の子」となられた神の御子イエスが来られたのです。
神の御子と言っても、肉体を持っておられます。御使いのようではありません。本能や欲望など罪の性質を宿す肉体に囲まれています。
しかし、「人の子」イエスは、カインができなかった、罪の誘惑を治める道を選ばれたのです。
そして、世の罪を取り除くために、一度も罪を犯されなかったご自分の肉体を、すなわち、すべての誘惑に打ち勝った罪のない聖なる神の子羊イエスのからだを、私たちにお与えになりました。
神の子羊イエスの流された血は、人々の罪を贖う血です。
イエスご自身は罪を犯されませんでしたので、ご自分のために流された血ではありません。罪を犯したくなくても、また、罪の縄目から解放されたくても、ままならない弱い私たちの罪を贖い、きよめるために流された血です。
裁き主なる神は、神の子羊イエスの血を「きよい。」と宣言されます。それゆえ、イエス・キリストの血を受けた魂はみな、きよいとされます。
国際的な品評機関のモンドセレクションに選ばれたものは、品質の良いものとして世界の人々に受け入れられるのと、似ています。神がきよいとされるものは、天で受け入れられるのです。
イエス・キリストの血を見て、神は、そのものはきよい、と宣言されます。
イエス・キリストの血は、神の赦しであり、滅びからの解放なのです。
さて、イエス・キリストを信じる人々で構成された神の家、すなわち、キリスト教会に属する人々に、信仰の試みの御手が入るでしょう。それは、信仰の真価を試すためです。
神に罪を赦されて義とされる魂は、一つの同じ御霊を飲んでキリストのからだとされます。
御霊を飲んでも、御霊に聞き従う人もあれば、キリストは信じるけれども自分の思いのまま生きたいと願う人もいます。また、罪の誘惑に翻弄される人もいれば、キリストを信じながらも御霊を受けていない人もいます。
地上にいる私たちは、天と地というと、平面の天と平面の地とを思い描きやすいです。天には、神の御座と神の子羊キリスト・イエスの御座があり、四つの生き物と二十四人の長老と御使いたちが仕えています。
地には、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の人々が、それぞれの領域で思い思いに暮らしています。そして、一つの大空に覆われており、一つの太陽、一つの月を、すべての人は同じ一つものを見ているのです。
新しい天と新しい地は、一枚岩のような平面ではなく、幾層もの平面が重なっているようです。
新しい天には、神の御座と四つの生き物と御使いたちのいる天があり、神の子羊イエス・キリストと十四万四千人の子羊の花嫁たちの天があり、携挙された人々の天があり、殉教者たちの天があり、と何層にも重なった天があるのでしょう。
御霊とともに歩んだ忠実な魂たちです。現在、私たちが考えている天のように、これらの魂は御使いたちのようです。
新しい地には、それぞれ同じ一つの信仰の人々が一つの平面上に、豊かな自然の中で平和な生活をするのでしょう。
現在、私たちが知っている地上のように、人々は互いに愛と喜びに満ち、神に感謝して安心して平和に暮らす社会が幾層も積み重なっている地でしょう。
新しい天にあっても、新しい地にあっても、人々はみな、神の愛に満たされて平和であり幸福です。
人はみな、それぞれ、その信仰に応じた層に入るので、競争はなく、一つの層には全き調和があるのです。そこにいるすべての魂は同一であって、すべての魂はありのままにしてとても居心地の良い、永遠の安息の世界です。
殉教者たちは、長崎で殉教した先人たちの魂や、イエスの使徒たちの魂とともに安息するでしょう。カトリック信者は多くいます。
すべての魂は、永遠の昔からずっとそこにあったかのような、深い安心と喜びと感謝と愛に満たされることでしょう。
おそらく、新しい天にはいる魂は、御使いたちのように神を賛美し讃え、新しい地にはいる魂は、古い地で人間たちが思い描いていた天国よりも遥かにまさる美しい均衡の世界で、愛と喜びと平安を神に感謝しつつ一つ家族のようにして過ごすのでしょう。
異邦人の時の完成とともに、新しい天にはいる異邦人のクリスチャンはこの世からいなくなるでしょう。
この世に残ったクリスチャンは、新しい地に住む信仰の勝利者となるために、目を天に向けます。決して、反キリストの像を拝まず、決して反キリストの刻印を押される道を選ぶことのないように、また、キリストを否むことがないように、信仰が守られるように神に祈ってすがり、信仰を整えることでしょう。
信仰の勝利者たちは、千年王国の仮庵の千年間を過ごした後、新しい天と新しい地で永遠の安息を得る御霊の教会の人たちです。