死が目の前に迫るとき、魂は生きることを願うことでしょう。
人は生まれた時、何も持ってません。魂は、ひとりの人の人生を渡されて世に生まれ出ました。
「私(ヨブ)は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこ(人として生まれる以前に魂が在った所)に帰ろう。」(ヨブ1:21)
何も持たずに地上に来た魂は、神がかたち造ってくださった、注文したとおりの肉体を着て世に出ます。
長らく着ていた幕屋も古くなり、寿命が訪れます。かたちあるものは、崩れ、朽ちて、新しいものに再生されます。
宇宙に存在する原子の数は一定であり、それぞれ時間の経過とともにかたちを変えて存在していると聞いたことがあります。
ある人の肉体をかたち造っていた原子は、かつては別の人の肉体をかたち造っていたというのです。それゆえ、世界にあるものはみな、原子レベルで共有し、あらゆることを体験しているというのです。
自分の肉体と思っているもの、自分の肉体を構成している原子は、実は、何世代もの使い古した原子を再利用した新しいかたちであり、現在私という肉体の現われによって存在している、と言えます。もし、自分が肉体を脱げば、それらの原子は新しいかたちに生まれ変わるのです。
世界はひとつに繋がっており、同じおひとりの見えない神力の意志によって動かされているようです。
肉体を見ているだけでは、人間の本質はわかりません。「本当に大切なものは、目に見えないもの」と言われますが、わかるようで、本当のところ理解できません。
世の終わりが近づくと、覆い隠されていたものが、あらわになります。光の力が強まるからです。
光の力とは、真実を求める意識です。目に見えないもの、霊的なこと、生死を隔てる肉体の幕屋の先に宇宙に漂うような不思議な感覚です。肉体の生命がいのちと思っていたのは、思い違いなのかも知れません。死んで終わるいのちではないように思えるからです。肉体を見る限り、生命には死がありそうですが、しかし、納得ができません。
真実を求めていると、社会で学んだ処世術は、安らぎに繋がるための助けではないことが分かって来ます。真実には、成功への興味よりも、普遍のもの、変わらないものへの興味が隠されていました。真実は地味ですが、不動のものです。先人たちが大切にしていたものです。
先人たちが大切にしていたものを探っていると、何か大切なことを私たちは忘れているように思えます。その大切なものとは、いのちに関連していそうです。心が安らぐ感覚と懐かしいような、魂の源流へと続く途絶えることのない家系の血脈のいのち。
自分たちが大切だと思って、あるいは思わされて、駆け抜けて来た人生で見逃していたものでしょうか。思いも留めなかったものです。立ち止まる人にしか、見いだされないものです。競争よりも共生を生きていた懐かしい良き時代の約束のような精神的なものです。
私が子どもの頃、子どもたちは言っていました。「空気と水はタダだ。」
実際は、水道代を支払っているので、水はタダではないのですが、お年寄りの時代の記憶をひきずっていた時代なので、そう言っていたのでしょう。
現代人は、高い金額のつくものに価値を見出します。タダのものを鼻で笑います。
しかし、空気も精神も魂も、お金で手に入れるものではないですが、尊い価値のあるものです。
現代人は、やっと、目に見えないものの価値に気づき始めました。いのちの価値に気づき始めたのです。
どんなに高価な物を持っていても、時代とともにその価値は変化します。良いと思っても、ある人にとっては要らないものです。普遍のものではないのです。
先行きが見えない不透明な時代になって、初めて、普遍への憧れが芽生えます。変化も素敵だけれど、軸にあるものがブレないことの安定に、真実に憧れる心は惹かれます。
心に目が向けられるようになったのです。何が幸せか、を立ち止まって考える人々が起こります。自分は何をしたいのか、自分は何に喜びを感じるのか。自分自身のことを顧みる瞬間が訪れます。
自然の中に身を置き静かに過ごす。空を仰ぐ。自然の音に耳を傾ける。ゆっくりと景色をながめる。電車の中で内省する。私たちは、生まれた時からともにいる魂のことを思いやる不思議な時を迎えました。
当たり前と思っていた空気のように、魂は今まで意識されずにいました。しかし、やっと日の目を見る時代が来たのです。
それは、肉体も魂も滅びる時代が近づいているからです。魂は、様々な情報をその人に知らせます。目から耳から。人生を楽しむための情報、賢くするための情報、自分を成長させるための情報に敏感に反応して来た今までのことは次第に過去のものとなり、自分の興味を満足させるものではなくなりました。
自分であって、自分ではないようです。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者3:11)
私たちの魂には、「永遠への思い」が焼き付けられているのです。魂の存在を意識しないでいた私たち一人ひとりの心に、永遠への思いは映し出されています。
永遠を思うことは、日常に追われて来た私たちの心の目を開く新しいチャレンジです。先祖たちの魂も、子孫の開眼の時を持っていたと思います。
先祖たちの魂は、肉体を脱いでみて、永遠の時があることを悟ったことでしょう。そして、肉体のあるうちに備えなければならない、魂の安息のための真理を知らせてほしいと血脈に語りかけていることでしょう。
永遠への思いがあることは、私たちに人生のチャンスを与え、いのちのチャレンジを渡してくださった神の意図に近づいているのです。
「神様。あなたが渡された人生を、私は正しく生きているでしょうか。
私に与えられた賜物をちゃんと生かしているでしょうか。」と尋ねてみてください。
神は、神に求める者に答えてくださいます。
私たちは、自分が真理(神)に属するものであることを知り、神の御前に出て、求めている真実について教えていただけることを信じましょう。
神は、私たちに平安を与えてくださいます。神との交流によって、私たちは見えない神を知らされるのです。