人類は二極化すると言われています。意識の方向が二つに分かれるということです。
一方は、光に向かい、もう一方は闇に向かう、というのです。
「私は闇を選びます。」と言って、闇に向かうのではなく、目に見える現実の世界で生まれつきのまま肉に従って生きることが、すでに闇の意識である、といいます。
自分で選ばなくても、ありのままで闇の方向に向かっているのです。
選ぶのは、光の意識です。現実の世界の向こうにある目に見えない世界に向ける意識です。目に見えているものは、滅ぶことが定まっています。誰がそんなことを決めたのか、と思う人もいるでしょう。
「まず、次のことを知っていなさい。
終わりの時には、欲望のおもむくままに生活してあざける者たちが現れ、(正しくあろう、きよくあろうとする人々を)あざけって、こう言います。
『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父(先祖)たちが死んでこの方、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。』
彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神のことばによって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界(暴虐に満ちる世界に生きたノアの時代)は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じみことば(同じ神のことば)によって取っておかれ、(神がおられることを信じず、神を神とせず欲望に従って生きる)不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。」(共同訳ペトロ3:3-7)
ノアの箱舟の話は、多くの人が知っていると思います。作り話のように思う人もいるでしょう。地球が丸ごと水で覆われた、と誰が想像できるでしょうか。実話と考えるには現実味がありません。
しかし、聖書には史実として記録されています。聖書に書かれていることは実証できるのです。たとえば、ソドムの町があったとされる土地には焼けた痕跡があるそうです。また、山の上に海の生物の化石が出ると、そこが水の下にあったことがわかります。
ノアの箱舟の物語は、信仰によってわかることのようです。神を信じる信仰が事実であると教えてくれます。また、箱舟を信じることによって信仰が与えられます。
聖書は、天地万物、太陽も月も人も、おひとりの神がお造りになったと言っています。その創造主が、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になると、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛め、そして、暴虐に満ち堕落し乱れた地を、大洪水によって滅ぼすことを決められました。
そのような堕落した世界に、主の心にかなう正しい人がいました。その時代にあっても、神を畏れ神とともに歩む正しい人でした。
神は、神とともに歩むノアに、地を滅ぼすことを告げ、箱舟を造るように命じられました。神は、ノアとその家族を箱舟に入れると、大雨を降らせて、地を滅ぼされました。生き残った地上の生きものは、箱舟に入ったものだけです。
天の水門を開いたのは神です。この神が「次は火で滅ぼす。」と言っておられます。
目に見えるすべてのものは、水を元として、また水によってできた、と聖書にあります。すべてのものの源である水、すなわち、かたちあるものの元の「水」によって、水からできた地上のすべてのものは滅ぼされました。
次は火によって世を滅ぼされます。その火とは、天から降る火であり、また、永遠に燃え盛る火の池のことです。最後の裁きの後に、神に反逆する破壊者であり敵対者である悪魔と悪霊どもを燃やす永遠の火の中に、不信心の者たちも入れられるのです。
神の子羊イエスが十字架で死に、三日目に墓から甦られて復活の新しいからだで天に上られました。ご自分を遣わされた父なる神のみもとに帰られたのです。肉体のからだでイスラエルに遣わされた神のひとり子である「人の子」イエスは、死から甦る新しい御霊のからだの「新しい人」神の子羊キリスト・イエスとなって、天に帰られました。
神の子羊イエス・キリストは、父なる神から聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威と主権と国(信仰の勝利者たち、すなわち御霊の教会)を与えられて、神の御座の右に着座されています。
聖霊のバプテスマを授ける権威は、悪魔と死に勝利したキリストの権威です。「キリスト」は、勝利者である神の御子イエスに与えられた称号です。聖霊は、神の子羊イエスを死から甦らせた御霊です。御霊は永遠のいのちです。キリストは、神を信じ、神の栄光を現わす者たちに、御霊を授けて、永遠のいのちを得させられるのです。
神は、すぐにも起こるはずのことをキリストにお与えになりました。キリストは、御使いを遣わして、しもべヨハネにお告げになりました。それが「黙示録」です。
ヨハネが生存している時に与えられた黙示です。およそ二千年前に書かれたものです。
黙示録の最後には、「然り。わたし(神の子羊イエス・キリスト)はすぐに来る。」(黙示録22:20)と書かれています。
すぐに来る、と言われてから、二千年も経っているではありませんか。本当に来られるのですか。この二千年の間、「新約聖書」を信じる人たちは、自分たちの時代に来られるかも知れないと考えて、「今か今か」と待ち続けていたことでしょう。
とうとう、信仰を失ってしまう人も起こったことでしょう。
世の中のことは、何も変わらないではないか。キリストの再臨の約束はどこにあるのか。自分たちの信仰はむなしいものなのか。こうして、人は信仰につまずくのです。
神は約束を遅らせておられるのではなく、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んで、忍耐深くあられるのです。
イエスは言われました。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病や飢饉が起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」(ルカ21:10,11)
主イエス・キリストが再臨される前に、地に住む人々は大患難を通ります。これは、すでに定まっていることなのです。神に捨てられたのではありません。必ず、この事は起こり、そのあとでキリストは来られるのです。
古神道でも、大峠を越えて、弥勒の世が現われる、とされています。
古神道、仏教が目指す「弥勒の世」。煩悩は消え、妬みや憎しみや争いのない、すべての者が平和で幸せな安息の世。
キリスト教は、患難期をくぐり抜け、天からキリストが再臨されて、千年間の平和な世が来る、と言います。
ユダヤ教は、エデンの園の回復の世を待ち望んでいます。いのちの木の道が開かれたいのちが光り輝く世です。
「弥勒の世」も「エデンの園の回復の世」も「キリストが治める千年王国」も、実は同じ世界を目指しているのです。
魂が安息する愛と喜びと平安の世界です。
これから、世は、いのちの光を失う滅びに向かいます。しかし、気づいた人たちは、光を求めます。世の流れに飲み込まれないように踏ん張り、救いを求めます。救いを求める人の心にともる光にある望みは、実は、「弥勒の世」であり、「千年王国」であり、安息が約束された「新しい世」であることをまだ知らないでしょう。
きよくありたい、正しくありたい、真実を知りたい、真理に繋がりたい、これらの天から与えられた良き心は、実は、魂が新しい世をめざしているからです。
それは、空想の世界ではありません。実在し、必ず訪れる安息の世なのです。この地上に現われる「普遍の世界」です。人類のだれも体験したことのない、感謝と喜びと愛に満ちた平和な世界です。なぜならば、そこには、いのちの木があるからです。
いのちの木の実を食べるならば、決して死ぬことはありません。
千年間の平和の王神の子羊イエス・キリストが治める王国の終わりに、悪魔が解き放たれると、いのちの木の実を食べていない人々は悪魔に従って、都を取り囲みます。
彼らは、神のひとり子に敵対する悪魔をかしらとする滅びの子らです。彼らは、天からの火によって焼く尽くされます。
千年の終わりに、いのちの木の実を食べて永遠のいのちを受けた神の子どもたちと、いのちの書に名前のない滅びの子たちがはっきりと分かれます。
光の子らは、千年王国でいのちの木の実を食べて、永遠のいのちを受けます。
闇の子らは、千年王国で都の外で泣いて歯ぎしりし、解き放された悪魔とともに火で焼き尽くされます。
「次は火で滅ぼす。」神のことばは成就します。
神御自身が「わたしの民」と名づけられた「イスラエル」の中に入った人たち、すなわち、イスラエルの王であられるキリストを拝し、都に入っていのちの木の実を食べた人々は、火の滅びから救い出されます。
心に光を宿す人たち、光を求める人たちには、「安息」の望みがあります。いのちの木のある新しい世界に入る希望を持ちましょう。
はっきりとした望みがあるならば、道を迷うことはありません。
「あなたの将来には望みがある。」(エレミヤ31:17)
「わたし(主)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)
「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例(「わたしの安息にはいらせない。」と神が誓われた、従おうとしなかった不信仰な人たち)にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(へブル4:11)