十字架にかかられた神の子羊イエスの流された血は、世の罪を取り除く贖いの血であると信じて感謝して受け入れ、また、イエスは神の御子キリストであることを信じ、罪の呪いから解放して自分を死から救い出してくださる救い主であると告白し、その信仰の誓いとして、水のバプテスマ(洗礼)を受けた人をクリスチャンと呼びます。
キリスト教会では、そのような信仰告白者たちが集ってともに、救い主イエス・キリストを地上にお遣わしくださった父なる神を礼拝し、聖書を学び、祈りを学びます。
「この方(天の神が地上に遣わされた神のひとり子、すなわち、神の子羊イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々(神の国を宣べ伝えるナザレのイエスは神の御子キリストであることを信じた人々、十字架の主イエス・キリストは、神がモーセに「彼に聞き従わなければならない。」と命じられた、神がお遣わしになった預言者であることを信じた人々)には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々(神の子羊イエス・キリストを信じた人々)は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神(の恵み)によって生まれたのである。(真理を信じ受け入れる信仰は、人のうちにはありません。ただ、神の御恵みにより、素直な魂に真実を現わされて、それを受け入れる人々に信仰をお授けになるのです)」(ヨハネ1:12,13)
世はこの方(天地万物を造られた創造主、天の神がひとり子に肉体を造り「人の子」として遣わされた神の子羊イエス・キリスト)によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はもとから世におられた方です。肉体をまとう「人の子」の姿で現れる以前、この方は神のことばであり、神のいのちを現わしておられた霊なる方なのです。
しかし、「人の子」イエスを見たユダヤ人たちは、イエスが神の御子キリスト(死と滅びから救い出してくださる救い主)であることを受け入れませんでした。
十字架で流された世の罪を取り除く、罪の贖いの血を信じませんでした。
荒野で神につぶやいたユダヤ人たちを、神は怒って毒蛇を送られました。毒蛇に噛まれて瀕死の状態のユダヤ人たちを救うために、モーセは祈り神に聞き従って青銅の蛇を木にかけると、モーセのことばを信じて青銅の蛇を仰ぎ見る者は生き、モーセのことばを受け入れなかった者は、毒蛇に噛まれて死にました。
それと同様のことが、約二千年前のイスラエルで起こりました。
木にかけられた神の子羊イエスを仰ぎ見る者(イエスを救い主と信じる者)は、神の子羊の罪の贖いの血を受けて、神に罪が赦されました。
しかし、木にかけられた神の御子イエス・キリストを嘲り、受け入れなかった者は、神に罪は赦されず、罪の報いの死の闇に葬られます。
神の御子イエス・キリストを信じた人は、「神の子ども」とされる特権が与えられています。
ここで、注意しなければならないことは、神の子どもとされる特権であって、神の子どもとされているわけではないということです。神の子どもとなる資格を得ているだけであるということです。
資格があっても、その資格を生かす職業に就かなければ、宝の持ち腐れとなってしまいます。人生の保険をかけたような、ただの安心です。幾つか所持している資格のうちの一つということであって、その人の人生になくてはならない「資格」とは言えません。その資格を生かした生き方を選んでいないからです。
クリスチャンに与えられている「神の子どもとされる特権」は、その特権を生かした人生を選んで生きることで、本当に神の子どもとされるのです。
特権を生かす人生とは、牧師や宣教師や伝道師などの教職者や、教会の奉仕者になることではありません。日々、心の中心に神がおられ、絶えず祈り、神に聞き、神の御霊によって判断しながら、御霊とともに信仰の歩みをすることです。
それは、どんな職業に就いていても、信仰によって選ぶいのちの道への歩みです。主への感謝、祈り、喜び、愛、主を意識する歩みです。そして、主の御前に静まる習慣です。日々、神とともにある魂です。神は、その魂とともにおられます。「主がともにおられる」このことを体験します。それは、何にも代えがたい平安です。
クリスチャンは、神の家の兄弟姉妹であって、互いに、「兄弟」「姉妹」と呼び合います。同じひとりの父、天の神の子どもたちだからです。
しかし、残念なことに、「神の子どもとされる特権」は信じても、自分が神の子どもに造り変えられる、という考えに及ばない人々もいます。自分はキリストを信じたから、そのままで神の子どもとされている、と信じている人は多いのではないでしょうか。
神の子どもとされるためには、神の子どもとしての歩みをする必要があります。新しく神の子どもに造り変えられなければならないのです。
神の子どもは天上に住まいを持つ人々です。地上の価値観とは異なります。地上で通用することが、天上では通用しないのです。そのことは、聖書から学ばなければなりません。御霊に教えられなければなりません。
神の御霊を受けると、意識が変わります。天上のものに意識が向けられるようになるからです。価値観がこの世のものから目に見えないものに変わっていきます。意識が、神の導きに向くようにされるのです。徐々に変化していく人もいれば、一瞬で変わる人もいます。人それぞれです。気づかなければ、変わりません。
キリストの血で贖われた人が御霊を迎えると、御霊は来てその人のうちに住まわれます。その人のうちに、神格者が来てお住まいになるのです。不思議なことです。天のことを知り、真理を教え、永遠のいのちを持つ真理の御霊です。
神の子羊イエスを、死者たちの中から甦らせた御霊です。御霊が与えるいのちには、からだがあります。時間の経過とともに老いて朽ちてしまう、時間空間に拘束された不自由な肉体のからだのようなものではなく、老いることも病むこともまく、また、生き続けるために飲み食いし睡眠をとる必要もなく、時間空間に拘束されない自由な霊のからだです。
人は肉体を脱ぐと、裸の魂に戻ります。しかし、聖霊を受けた人々は、御霊によって新生し、永遠のいのちを持つ神の子どもに新しく造り変えられ、御霊のからだを得ます。
神の子どもとは、御霊によって生まれ、神の子どもに新しく造り変えられた「新しい人」のことです。
キリストの血を受けて罪を贖われた人が、御霊を受けないでいると、その人から出て行った汚れた霊は、きちんと片付いたその人の内側が空いているのを見て、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくので、その人は初めよりもさらに悪い状態になると、イエスは言われました。
七つの悪霊がはいった状態とは、七つの御霊の教会のどの教会にも入ることのできない悪い状態になったことをさします。それは、救いの道が完全に断たれた状態です。すなわち、いのちの書に名前のない者となってしまうのです。
キリストの血できよめられたならば、そのきよくなった部屋に、永遠のいのちを授けてくださる「真理の御霊」をお迎えしなければなりません。そうしなければ、きよめられたけれども、いのちの宿らない空き部屋となってしまうのです。その人の霊の主人が不在なのを知ると、その人のうちから出て行った悪霊は再び戻って来てしまいます。心の王座にキリストを迎えて、御霊とともに歩むことを教えられた人は幸いです。
さて、神の御国の働きは、御霊を受け新生した神の子どもたちによって、成されます。神の国は、キリスト者によって造られるものではなくて、御霊によって建て上げられるものだからです。
御霊によって新しい創造を受けた「新しい人」たちのうちには、キリストがかたち造られます。キリストの御霊が、キリストを頭とするキリストのからだをつくられるからです。それゆえ、新生した人は、キリストの御霊によって導かれ、キリストの栄光を現わす神の子どもです。
神の御子イエスの血は、世の罪を取り除く聖なる贖いの血です。
一つの御霊を飲む、キリストを頭とする神の子どもたちの血は、国や民族、また同胞を贖う尊い血です。
キリスト教会の中には、この尊い血を流す信仰の勝利者たちがいます。自分のいのちを神にささげる殉教者たちです。
彼らの犠牲には、神の報いが伴います。彼らの目は、神の栄光を見ています。
「聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、こう言った。
『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。」(使徒7:55-58)
殉教したステパノは、天を見ていたのです。神は、ステパノの目に天を開かれました。キリスト教会にいる終わりの時代の殉教者たちもまた、目が開かれて天を見つめ、神の栄光と、キリストの御姿を見るでしょう。
神は、このような尊いいのちをリバイバルのために必要とされています。
神は、キリスト教会の中を行き巡り、この務めにふさわしい、新生した尊いいのちを選び分け、数えておられることでしょう。