イスラエルとは、中東のイスラエルのことではありません。信仰に勝利する神の民のことです。
イスラエルのメシアとは、世の終わりに立つとされる、世界の救いの光となって、人々に御救いの希望をもたらす人であり、罪で滅びる世にあって、新しいいのちの世界の扉を開く人です。
新しいいのちの世界とは、争いのない愛と調和と安らぎの世界です。現在の世界のどこに、この新しい世界の扉があるというのでしょうか。
クリスチャンたちは、キリスト教会にその扉があると信じて、神を礼拝しています。
仏教徒は、仏の教えにその扉があると信じて、写経し、仏の教えに耳を傾けます。
神道の道にその扉があると信じる人たちは、心の汚れを祓う(はらう)ために、神社で手を合わせます。
しかし、キリスト教会はさまざまな宗派教派に分かれて、それぞれの教義を主張しています。
仏教はさまざまな宗派教派に分かれて、それぞれの教えに留まり、ほかの教えとの間に見えない境界があります。
古神道は、八百万の神々でありながら、おひとりの神として捉えます。すべてのものは、繋がっているのです。
日本国の魂を昔から支えて来た古神道の神は、それぞれ独立した神でありながら、大いなる自然の中にある一つとして存在します。それゆえ、宇宙をひっくるめると、すべてのものは一つとなるのです。
日本列島を長い間、守ってきた古神道の祭儀と神事。あとから日本列島に入って来た教えとぶつかることなく、懐を開いて、新しい教えを受け入れて来ました。
そのようになるには、葛藤があります。新しい教えが入って来ると古神道の神を中枢に置いて、その普遍的真理を取り入れて融合します。日本人の精神に取り組んでより豊かになります。中心がブレることはありません。日本人は、それぞれの教えに隠された真理を取り出しては、神に受け入れられる真実な生き方をするために取り込んで、より豊かな精神性をかたち造ってきました。
あるユダヤ人は言いました。日本には、キリスト教も仏教もない。あるのは日本教だけであって、すべてのものは、アレンジして日本教に組み込まれる。そうして、日本教キリスト派や日本教仏教派として、日本人になじむ。
日本列島で培われた民族宗教、古神道の教えは、日本国民にとって自由なものでした。しかし、神に仕え祭祀を執り行う祭司たちは、伝統的に守らなければならないことが多いのです。
今でも、日本国民は自由に神社を参拝します。縛りはありません。どこの神社でも、氏子でなくても出入りできるのです。
ただし、人間の俗域と神の領域との境界は定められています。鎮守の森によって神の聖域は、人間の生活圏と区別されます。鳥居は神の聖域の門です。この門をくぐって、神の聖域にはいり、神を参拝するのです。
それゆえ、日本人は鳥居のところで一礼し、これから聖域に入らせていただきます、と無言の挨拶をします。
日本人にとって、神の領域は人間が犯してはならない神聖なものです。神を汚してはならないのです。
昔の日本人は、鳥居の前を通り過ぎる時でさえ、聖域を意識していました。鳥居の前で手を合わせて通り過ぎる人もいます。
日本人の日常には、人間の暮らす俗世界の中に、神を思い出す聖域(神社)が点在しています。日本列島は、神とともにある場所、生けるまことの神の鎮まられる国なのです。
イスラエルのメシアとは、イスラエルの王ソロモン王の不義によって引き裂かれた二部族の南ユダ王国と十部族の北イスラエル王国を一つに回復し、一つとなった十二部族のユダ族の総督です。
「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」(エズラ5:2)
ゼルバベルは、ダビデ王の子孫であり、バビロン捕囚からエルサレムに送還されたユダの総督です。イスラエル王国ではないイスラエルの最初の総督です。
ユダの総督は、神の民の政治的指導者であり、大祭司ヨシュアは、宗教的指導者です。終わりの時代に、このふたりのような人物が再び起こるのです。
神の子羊イエス・キリストを信じず、受け入れなかったユダヤ人たちは、神の怒りの御手によって、世界に散らされました。
しかし、諸国に離散していたユダヤ人の子孫の中に、十字架の主イエス・キリストを受け入れて「わが主わが神」と呼ぶユダヤ人が現れると、神は、ユダヤ人たちの前に先祖の地へ帰還する道を開かれました。
聖書の預言は成就しました。
ユダヤ人の多くの血が流された後に、国連に承認されたユダヤ人の国「イスラエル」が、ユダヤ民族の先祖の地に建国されました。
しかし、ユダヤ民族十二部族が回復したのではありません。神は、離散したユダヤ人たちをイスラエルの地に戻すことと、十二部族のイスラエルの回復と、神が父祖アブラハムに約束したカナン全土を所有させることとを約束しておられます。
1948年に、イスラエルの国が建国されて、諸国からユダヤ人たちが帰還しています。
ユダヤ人たちは、ソロモン王が建てたエルサレムの神の神殿の跡地(神殿の丘)に第三神殿を建設すると、メシアが来られると信じています。
バビロン帝国に崩壊されたソロモン神殿の跡地に、ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアが立ち上がって第二神殿を建て始めました。
ローマ帝国に崩壊された第二神殿の跡地に、イスラエルのメシアとアロンのメシアが立ち上がって、第三神殿を建てるのでしょうか。
御使いは言いました。
「大いなる山(妨げの山、不信仰の山、不従順の山)よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で、平地となれ。彼(イスラエルのメシア)は、『恵みあれ。これ(七つの目のあるかしら石)に恵みあれ。』と叫びながら、かしら石(世界宣教をして七つの御霊の教会を整える十四万四千人のユダヤ人)を運び出そう。」(ゼカリヤ4:7)
「ゼルバベル(イスラエルのメシア)の手(働き)が、この宮(第三神殿)の礎を据えた。(人間は目に見える物質的な神殿の建設を見ていますが、実は、霊的な神殿である目に見えない神の真実な聖徒たち「聖霊の宮」、とこしえの神の民である「七つの御霊の教会」を建て上げているのです)彼の手(イスラエルのメシアの働き)が、それ(とこしえの神殿)を完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。(完成するまで、ユダヤ人たちは、日本から来た「イスラエルのメシア」が本当に神から出た者であるかどうかと疑うが、完成すると、神が遣わされたメシアであることを信じるようになる)
だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。(ユダヤ人たちは最初、選び抜かれたかしら石の価値がわからない)これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。(イスラエルのメシアとアロンのメシアのふたりの証人の不思議としるしを見て、とこしえの神殿のかしら石は喜ぼう。また、ユダヤ人たちは、神がメシアを遣わしてくださったことを悟り、ユダヤ民族を覚えておられた神、神の御恵みと真実を知って、喜ぼう)これらの七つ(かしら石の七つの目、すなわち、世界宣教を完成する十四万四千人のユダヤ人)は、全地を行き巡る主の目である。」(ゼカリヤ4:9,10)
御使いは、言いました。
「これは、ゼルバベル(イスラエルのメシア)への主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊(真理の御霊、すなわち聖霊)によって。』と万軍の主は仰せられる。』
大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベル(神が聖霊によって油を注いだ神のしもべ。彼は、聖霊の御力によって神のことばを語り、不思議としるしによって神の栄光を現わす「イスラエルのメシア」)の前で平地となれ。(神は、「イスラエルのメシア」とともにおられて神の栄光を現わされる。神の栄光のみわざを妨げるものは何もない。神がすべて妨げるものの力を砕かれるからだ)
彼(イスラエルのメシア)は、『恵みあれ。これ(十四万四千人の召された人たち)に恵みあれ。』と叫びながら、かしら石(とこしえの神の家のかしら石である子羊の花嫁)を運び出そう。」(ゼカリヤ4:6-7)
世界の救いのため、また、ユダヤ民族の救いのために立つ「イスラエルのメシア」は、聖書を知らない国、日本列島から出ます。
日本列島は揺れ動いて、眠っている古の民大和民族を目覚めさせます。大和民族は眠りから覚めると、信仰を思い出します。生けるまことの神、目には見えないけれども、先祖たちが魂で交わっていた霊なる方と再び結び直されます。
大和魂は息を吹き返し、神の国の秩序を思い出すでしょう。神が霊的権威を与えておられる神の祭司である天皇の存在に気づきます。目覚めた大和魂は、もとの位置に戻ります。天皇と臣民の霊的絆が結び直されると、おのおのの魂は一つの方向に向き、さざれ石の巌の和の国が回復します。彼らの中心には、目に見えない神がおられます。一つ一つの大和魂の小さな信仰は、集合意識となって一つの強い信仰、すなわち、調和と愛と希望と御救いの信仰が建て上げられるでしょう。
真理を知る大和魂は「和の国」に整えられるでしょう。彼らのうちに、普遍の愛、赦しと和の心が築かれるでしょう。
日本列島では、物質的な日本国の中に、もう一つ、大和魂が精神的に繋がる目に見えない霊的な「和の国」が造られているのでしょう。
「イスラエルのメシア」は、神の御霊によって建てられる霊的な「和の国」の中から、現われるのでしょう。