ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

私たちは父に愛されている

 

 私のお父さんは亡くなりました。

 私はお父さんの顔を知りません。

 私の父はいなくなりました。

 私のお父さんは本当の父ではありません。

 これは、肉の父親のことを言っています。

 

 父親、母親は、自分にとって自分の母体です。自分が存在している原因であり、理由でもあります。

 父親がわからない、母親がわからない子どももいます。自分のルーツがわからないことは、自分の存在の証明が不透明で不安なものです。

 自分は何者か?自己存在の位置情報がないように感じます。かかえる不安は、他人が想像する以上のものかもしれません。自分の人生なのに、自分自身のことがよくわからない。ともしびを持たないで、闇の中をさまような感覚でしょうか。

 

 人は生まれた後に、必ず死にます。生き続ける人はひとりもいません。

 息が止まると、人の肉体から魂が抜けるようです。この魂が自分の正体であり、本体なのです。

 魂をいれていた器の肉体はどうなるでしょう。息が止まり、血液の循環が止まると、酸素の運搬は終了して、すべての器官の機能は止まり、細胞は壊死していきます。

 聖書では、「血はいのちである。」とあります。血が循環して、肉体は生かされています。血の循環が止まることは、死を意味します。いのちが流れなくなると、死が訪れるのです。

 

 さて、血の働きが止まり、死んだ肉体は、土に還ります。なぜ、「還る」と言うのでしょうか。実は、人のからだは土のちりから造られているからです。土のちりから造られた肉体は、いのちの息によって生かされ、いのちの息が取り去られると、もとの土に還るのです。

 

 土のちりから造られた?造られたというのはどういうことですか。造った人がおられるということでしょうか。

 

 「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

 人は、神であられる主に、土地のちりから造られた神の作品のようです。

 人は、陶器師であられる神の御手の中にある粘土です。神は、魂一人ひとりの要望を聞き、オリジナルな肉体を造って、一人ひとりの魂に人生を与えられます。

 

 魂は、いのちの根源であられる神によって生まれました。一人ひとりの魂は、同じひとりの、いのちの根源であられる全能の神によって存在しています。

 地上に人として生まれる時、それぞれの父と母のもとに生まれます。それは、魂が学び成長するための仮の姿です。仮の姿ということは、真実な姿ではないということでしょうか。真実な姿は、肉体の中に入っている魂にあるのです。

 

 その証拠に、いのちの息が取り去られて死を迎えると、肉体は朽ちて土に還りますが、肉体から抜け出た魂は、肉体に入る前にいた魂の場所に帰るようです。

 そして、しばらくすると、また新しい肉体をいただいて、新しい父、新しい母のもとで魂の鍛錬がなされるのです。新しい父、新しい母を父母とする子として生を受けると、その人生がすべてのように感じるでしょう。

 

 しかし、魂は、幾度も転生しており、多くの父母たちの子どもとしての人生を体験していると考えられます。自分のお父さん、お母さんと思っている人たちの魂もまた、様々な人生を体験して来て、今があるのでしょう。

 

 人の人生は長くても百年くらいです。多くの人はその百年にも満たない期間が生命のすべてだと思っています。それで、その生命とともにある家族が、その魂の小宇宙のように感じます。しかし、実際は、魂の期限はありません。神から生まれた魂は、神のように永遠に存在するものです。

 魂は、肉体を脱ぐと、また、新しい肉体を着て、多くの経験を積んでいくのでしょう。

 

 どうして、魂はさまざまな経験を必要とするのでしょうか?父に愛されているからです。魂を愛してくださる父とは、私たちを生んで下さった神のことです。いのちの根源であられる神です。魂は、いのちの根源と繋がって、新しい生命を受けるのです。

 

 肉体を脱いで、魂の姿に戻ると、はっきりといのちの根源であられる神を知るようです。肉体に覆われた魂は、真理の光を受けることが困難です。肉体が闇をつくるからです。しかし、肉体を脱いだ裸の魂は、魂のもといた場所に戻ると、光の中に入ってすべてを悟ります。

 

 私たちを造られた神は、私たちの魂を生んだ父です。

 肉体を着ると、魂を生んだ父を記憶の彼方に忘れて、肉の父親が本当の父だと思います。しかし、魂は知っています。本当の父は、いのちの源であられる天地万物を造られた全能の神であられることを。

 肉体の父も母も、私という子どもによって魂の学びを受け、また、私は肉の父と母との関係によって魂を取り扱われます。

 すべての人は、天の神を父とする魂なのです。しかし、私たちは、天の神が魂の父であることを知らされていません。

 

 天の神は、一人ひとりの魂を生んだまことの父であり、また、一人ひとりの魂は「おひとりの普遍の父」に帰るために、人生が与えられています。

 魂の経験は、まことの父を見い出し、罪なき者とされて神と和解し、父のみもとに帰って、神の子どもとされるためなのです。

 

 それは、魂が神と不和の状態にあるからです。神の命令に従わず、光よりも闇を愛した人は、自分の意志で全き光の世界を飛び出しました。いのちよりも、死を選んだのです。

 「それを食べると必ず死ぬ。」と神が仰せられた善悪を知る知識の木の実を食べて、神から独立して自分自身の判断に頼って生きることを選んだのです。

 いのちの根源のことばから外れた人は、いのちの供給を失いました。死を待つばかりです。

 

 自分から神にそむいて旅立った人ですが、神は、人を忘れてはおられません。神は、神のひとり子のために、魂の救いを用意されました。

 神は、ひとり子に天においても地においても主権をお与えになります。

 神のひとり子に妬みを持って神に反逆し神の御子に敵対して天を追放された堕天使長(悪魔)に勝利した神のひとり子を主権者として、神の子羊に繋がる魂を、神のひとり子にお与えになります。

 

 神のひとり子を愛される父なる神は、被造物を愛されます。御自身の作品ですから。

 悪魔の闇を受けて、汚された被造物ですが、神は、その罪汚れを取り除く贖いの血を用意されました。いのちの力によって、罪の呪いの死の力を踏み砕くのです。

 一度も罪を犯さず、全きいのちに満ちた聖なる神の子羊イエスの血は、罪の汚れを取り除く全き血です。

 

 「人の子」となられた神のひとり子は、死の定まる魂に永遠のいのちを得させて、魂を全き光の中で安息させるために、ご自分の血を流されました。

 

 聖歌593の「ああめぐみ」はこの恵みを賛美しています。

 

 罪に満てる世界 そこに住む世人に

 「いのち得よ」とイエスは血潮流しませり

 ああ恵み 測り知れぬ恵み

 ああ恵み 我にさえ及べり

 

 誰ぞ 我の罪をことごとく洗うは

 見よ血潮はなれ(我)を雪よりも白くせん

 ああ恵み 測り知れぬ恵み

 ああ恵み 我にさえ及べり

 

 神のひとり子イエスは、私たちの罪を洗い、雪よりも白くきよいものとするために、肉体を持つ「人の子」となって来られ、私たちに「永遠のいのちを得よ。」と言って、ご自分の血を流されました。

 

 神は、御自身のひとり子である神の御子を、私たちの死の身代わりとするほどに、私たちを愛されました。神は、神に逆らい、自分を神として生き、自分の魂の行方を知らず真理を悟らない愚かな私たちを憐れみ、ひとり子を遣わされました。

 私たちの罪を赦して御自分と和解させ、魂の本来のあるべき姿をとり戻させるためです。

 

 私たちは、おひとりの父によって生まれた魂です。神は、肉体の私たちを求めてはおられません。私たちの魂を求めておられるのです。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

 私たちには、おひとりの父がおられます。私たち一人ひとりをよくご存知で、私たちの魂を愛しておられる父です。

 

 私たちは、魂の声に素直になりましょう。魂は、まことの父を知り、まことの父を慕っているのです。

 魂に違和感を感じるものは遠ざけて、魂に平安のある道を歩みましょう。

 

 まことの神は、神の子羊イエスに繋がる魂を、喜んで天の御国に迎え入れてくださいます。それらの魂には、御霊のいのちがあるからです。

 

 父なる神は、子なる神、聖霊と三位一体の神であられ、御霊のいのちを持つ私たちを神の家族として迎え入れてくださいます。

 神のことばにそむき、エデンの園から追放された罪人は、父なる神が遣わされた救い主キリストを信じて神に立ち返ると、神の子羊イエス・キリストの御霊を授けられて、神の子どもに造り変えられます。

 

 私たちは、神に捨てられた悪魔のような滅びの子ではありません。私たちの罪は赦されました。私たちは神のひとり子キリストを信じたからです。

 私たちは、神の子羊イエス・キリストの血により贖われた者です。イエスの父に愛される神の子どもです。

 イエスの父は、私たちを愛して、神の子どもの長子であるイエス・キリストの兄弟姉妹として、御霊によって新しく生んでくださったのです。

 

 御霊によって新しく生まれた神の子どもである私たちは、イエスの父であられる天の神を「私たちの父」「天の父」と呼ぶ御霊を受けているのです。