ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

光の三原色、色の三原色の作用

 

 「光の三原色」といって、赤(R、レッド)、緑(G、グリーン)、青(B、ブルー)の三つの光を重ね合わせると、様々な色が表現できます。映像に映し出される色です。

 赤の光、緑の光、青の光、これらの三つの光の色が、光のすべての色の基本であるということです。赤と緑の光を重ねると黄色の光になるそうです。

 赤、緑、青の三色をすべて強くすると白っぽい光となり、色を感じない光となるようです。

 

 「色の三原色」といって、シアン(C、薄い青色)、マゼンタ(M、薄い赤色)、イエロー(Y、黄色)の三つの色を重ね合わせると、様々な色が表現できます。印刷物に使われる色です。絵具もそうです。絵具の青色と赤い色とを混ぜ合わせると紫色になり、また、青色と黄色とを混ぜ合わせると緑色になるという作用があり、シアン、マゼンタ、イエローの三色で様々な色合いを表現することができるのです。

 色の三原色は、混ぜるほど暗くなり、最後には黒くなってしまいます。こうなってしまうと、どんなに新しい色に変えようと試みても、どんどん黒くなる一方です。

 

 魂には、色があるようです。

 それは、今生の人生を送っているうちについた色ではなくて、魂の転生のたびに変化し、より明らかになった色だと思われます。

 

 前世までの魂の完成度によって、それぞれの魂はタラントを受け取って生まれて来たように思います。

 神は不公平なお方ではなく、魂の修錬の度合いを量って、それぞれの状態にちょうど良いタラントを預けておられるようです。

 

 主人は、しもべたちに、おのおのの能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけました。(神の御子イエス・キリストは、それぞれの弟子たちに、その能力に応じて、御霊の賜物を預けました。弟子たちは、おのおの預けられたタラント〈賜物〉を用いて神に仕え、神の栄光を現わします)

 

 「しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。(イエスは再び来られると、御霊の賜物を預けていたしもべたちから、その賜物をどのように使ったのかの報告を受けて、それぞれに報いを与えられます)

 五タラント預かった者が来て、もう五タラント(今生の人生でより豊かとなった賜物の働きの実を)差し出して言った。『ご主人さま。(主よ)私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラント儲けました。』

 その主人(神)は彼(五タラント預けた魂)に言った。

 『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:19-21)

 

 「ニタラントの者(ニタラント預けられた者)も来て言った。

 『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらにニタラント儲けました。』

 その主人は彼に言った。

 『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実であったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:22,23)

 

 主人は、五タラントの者にも、二タラントの者にも、「わずかな物に忠実だった。」と言いました。

 主人にとって、五タラントも、二タラントも同じです。人間は、五タラントが多く、二タラントは少ないと考えますが、神にとっては、その魂が負えるだけの物を与えておられるのであって、公平なのです。

 

 神は荒野のユダヤ人を養うために、毎日、天からのパン(マナ)を降らせて、それぞれ自分の食べる分を集めさせられました。

 ある者は多く、ある者は少なく集めました。しかし、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことがありませんでした。各自は自分の食べる分だけ集めたのです。

 このように、すべての人が、同じ分量の食物を食べられるわけではないのです。満腹になる量は、人それぞれなのです。

 人は、自分に必要な分量を知って、自分に必要なだけのマナを集めました。

 

 このマナは、翌朝まで残して置くと、虫がわいて、悪臭を放ちました。それゆえ、イスラエル人は、朝ごとに、各自が食べる分だけ、マナを集めたのです。日が熱くなると、天から降って荒野の面にあった、白い霜のような細かいマナは溶けました。

 

 神は、公平なお方です。一人ひとりを知り、その人にあったタラントを預けられます。多過ぎて疲弊しない、ちょうど良い分量の、御霊の賜物です。また、少なすぎて人生を持て余すことのない分量の、その魂の力に見合った賜物です。

 一人ひとりの賜物は、重すぎず、また、軽すぎません。

 

 神は、音楽が苦手な人に音楽の賜物を預けられません。それまでの転生で、音楽に携わり音楽とともにあった人生を繰り返してきた魂に、神の栄光を現わす賜物として、その人に音楽に関係する賜物を預けられるのではないかと思います。

 

 神は、それぞれの魂が積み重ねてきた経験の中で、その魂が最も安らぎと喜びを持ち生きている実感を感じるものを見定めて、また、魂の経験と成長具合をご覧になって、その器量に応じて賜物を預けられるように思います。

 神は、それぞれの魂に、ちょうど良いタラントを預けておられるのです。それゆえ、ほかの人と比較して高ぶったり羨んだり妬んだりすることはむなしいことです。時間を浪費するだけです。

 人は、神に預けられたタラント(賜物)を用いて神の栄光を現わし、今生の人生でより豊かなものとされるのです。

 

 さて、一タラント預かっていた者も来て、言いました。

 「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。(私は、神は、種を与えずに、収穫の実を要求し、また、報酬を与えずわずかなものだけを与えて、苦しい労働を強いて結果を求めるひどい方だと知っていました)

 私は(わずかな賜物を預けた神が何を私に要求して来るのか)こわくなり、あなたの一タラント(神から預かった賜物を使った結果、ひどい状態となってしまうことがこわくなって賜物)を地の中に隠しておきました。

 さあどうぞ、これがあなたの物です。(もし預かった賜物を使って失敗したら、どんなお仕置きがあるのかと考えると気が気ではありませんでした。賠償できないならば、初めからタラントを使わないで、減ることのないように隠しておいたほうがましです。こんなものは預かりたくなかったです)』

 ところが、主人は彼に答えて言った。

 『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

 だったら、おまえはその私の金(一タラント)を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』

 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

 役に立たぬしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。

 そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:24-30)

 

 一タラントの人は、神から聞いたこと、また、預かったタラントを、他の人にも教える能力のある忠実な人たちにゆだねればよかったのです。

 しかし、神の愛を信じず、神の御恵みを疑うその人は、神から預かった賜物を、神にお返しする日のことを考えて自分の中に隠していたのでした。

 

 光の三原色の集合は、御霊によって新しく生まれ新生した魂の集合意識を表わすように思います。いのちの光を宿すそれぞれの魂の意識が集まると、おのおのの魂の光は、一つとなって白っぽい光となります。

 

 「『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮(ソロモンの神殿)は雲で満ちた。

 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(歴代誌第二5:13,14)

 

 光の魂の意識が集合すると、神の栄光が現れます。

 すべての魂の光は一つとなって白っぽくなります。神の栄光の雲のようです。

 

 しかし、光を持たない魂の意識が集合すると、肉の様々な思いが膨れ上がって、闇を生み出します。色の三原則の集合は、惑いの黒い雲を生む肉のままの魂を表わしているようです。

 肉の魂の集合意識の黒い雲は、魂の意識を神から引き離すでしょう。

 

 集合意識は大切な霊的力ですが、光の魂の集合と、肉のままの魂の集合とは、真逆な結果を生みます。

 光の魂の意識と肉のままの魂の意識とが集合しても、一致することはありません。

 

 霊界を光に変え、世界を光に変えるのは、愛と希望を持つ光の魂、また、目に見えない聖なる方への信仰を宿す魂に預けられた賜物です。

 

 雲が雨で満ちると、地に雨が降るように

 賛美が満ちると 主がそこに住まわれる

 

 雲が雨で満ちると 地に雨が降るように

 祈りが満ちると 主のみわざが現われる

 

 雲が雨で満ちると 地に雨が降るように

 感謝が満ちると 主の平安が訪れる

 

 雲が雨で満ちると 地に雨が降るように

 主の血潮を仰ぐと いやしの雨が降り注ぐ

 

 光の魂の集合意識は、この賛美のようなことが起こるのです。