「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富(この世の富)に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富(とこしえの富)を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」(ルカ16:10-12)
大きい事を成し遂げるのは、そこに至るまで、その時その時今目の前に置かれていることに向き合って、誠実に小さい事をこつこつと着実に積み重ねて来た結果です。
小さい事の重なりが堅固な土台となり、大きい事を建て上げることができます。
もし、小さい事を軽んじていい加減に過ごして来たならば、運よく大きい事を成し遂げたとしても、土台がないために、しばらくして崩れ落ちます。
また、小さい事に忠実な人は、物事に誠実に取り組むということが習慣となっているために、大きい事にもその姿勢は乱れず、小さい事と同様に大きい事にも誠実に取り組むのでしょう。その人にとって、小さい、大きいは問題ではなく、ただ、目の前の事に忠実である、という生き方があるのです。
普段から小さい事に不忠実な人は、自分自身で考え対処する知恵が身についていないので、大きい事も他人任せとなるでしょう。
忠実に生きる生き方が身についていないので、自分で責任を負うという自覚も覚悟もありません。
小さい事に忠実な生き方をする人は、自分で気づかないうちに、神に受け入れられる生き方をしているのです。魂が祝福されるための備えがされています。
しかし、小さい事に不忠実な生き方をする人は、神から遠く離れています。神から何か良いものをいただけると思ってはなりません。
神は、神に近づく者たち一人ひとりに、神の栄光を現わすタラント(賜物)を授けてくださいます。その賜物は、その人の魂とかけ離れたものではありません。魂が最も喜びに満ち、ここが自分の居場所だと思うような、その人自身の能力が最もよく引き出されるものでしょう。このことをするために、私は存在しているのだ、という確信、また、生きがいを実感するような賜物でしょう。
イエスは言われます。
「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるのでしょう。」
肉と魂とは別々のものですが、切り離せるものではありません。魂が肉体にある間、人間として生命を持ち地上にある間、私たちは、生きていくために糧を得なければなりません。そのために、お金が媒体となります。
この世の金銭社会で不正を行なう者に、神は、御自身の富、すなわち永遠に残る、とこしえの価値あるまことの富を任されない、と言われます。
まことの富とは、神の栄光を現わすために預けられる御霊の賜物です。御霊の賜物は、真理の御霊によって与えられます。
また、イエスは言われます。
「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」
他人のものに不忠実な人を、神は信頼されません。神は、そのような人に、神の賜物を預けられることはありません。その人のために用意されていた賜物は、ほかの忠実な人々に与えられます。
自分自身の生活の中で、小さい事に忠実である人、また、この世の富に忠実な人、そして、他人のものに忠実な歩みをしてきた人々に、神は、それぞれの人に用意しておられるタラント(賜物)を預け、まことの富(天に残るとこしえの財産となる、神の働き)を任されるのです。
神にタラントを預けられた魂は、それぞれ、主の前に出て清算するときがきます。神は、それぞれの魂を祝福し、報いられます。
魂には、光の色があって、その色ごとにグループが分けられるように思います。
一言に青色といっても、薄い青色から濃い青色までのグラデ―ションのすがたによって色を区別すると、おそらく何十層、何百層もの色があると思います。
一つの層に、同じ色が集められると、その層は一色として見えるでしょう。
一色ということは、魂の色が同じ魂が集まっているということです。同じ色の魂は、まるで、ひとりの人のようです。
このような一色となった層が、幾層も、色を乱さないように順番に縦に建て上げられている世界が、「新しい天と新しい地」のような気がします。
新しい天には、神の子羊イエス・キリストの御霊によって、子羊の婚宴に招かれた魂の住まいがあるように思います。
新しい地には、神が世の終わりに立てられる「イスラエルのメシア」に従って、救いを得た人たちの住まいがあるように思います。
あるクリスチャンが言いました。
「天国って、永遠に賛美しているだけやの?なんか、飽きてしまいそうやね。永遠に同じことしているのかなぁ。」
私は、それを聞いた時、そういう捉え方もあるのかぁ、と思いました。
しかし、この正直な思いは、新しい天と新しい地を捉えるヒントとなりました。
新しい天とは、現在私たちが「天」と呼んでいるようなところだと思います。
現在、神の御座があり、右の座には神の子羊イエス・キリストがおられます。そして、四つの生き物と、二十四人の長老が御前で仕え、多くの御使いたちが、神の栄光を讃え賛美しています。
新しい天に、住まいが設けられている魂は、現在の御使いたちのような存在となるように思います。賛美することが喜びなのです。
新しい地とは、私たちが地上で生活しているようなところかもしれません。
様々な植物があって花は咲き乱れて、美しい川があり、エデンの園のようなところで、神に感謝し愛をささげながら、すべての魂は平和に暮らすのかもしれません。
食べても食べなくても、霊のからだは永遠に生きますが、豊かに実がみのり、自由に食べてよいのです。
同じ色の魂が一つの層(平面)に存在し、その世界ではすべてのものがひとつです。
その完全に一致するひとつの世界が断層のように各層にあるというすがた、多くの色の魂はそれぞれの色の層をつくり、それが幾層も縦に深く広がるすがたが「新しい地」のように思います。新しい地は、一枚岩の平面ではなく、幾層もの地(世界)が断層のように重なっているようなすがたなのかもしれません。
同じ色の魂は、一つとなった世界の安息をその層の中で味わうのでしょう。
上の層の魂は下の層へ自由に行き来できますが、下の層の魂は、自分の世界から上の世界に行くことはできない、とスピリチュアルな人は言います。
新しい天にはいる魂は、神を賛美することに喜びを感じる魂であり、真理の御霊に忠実な魂でしょう。御霊に聞き従って、信仰に勝利します。
新しい地にはいる魂は、神を信じ神に感謝しつつ、互いの交わりを楽しむ魂であり、キリストのような生き様の「イスラエルのメシア」に従って、信仰に勝利する魂だと思います。
新しい天も、新しい地も、同じ色の魂の層に集められて、とこしえの安息を得るのでしょう。