ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

無宗教と言われる日本人のうちに真理があった

 

 神は確かに導いておられました。

 神は、私に回るべき神社仏閣を巡らせておられました。私が自分で決めているようで、実は神の御霊が私の思いのうちに働いておられたのです。

 

 2024年11月21日に、奈良の吉野山に行き、金峯山寺(きんぷせんじ)に向かいました。その日、三体の金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)の御開帳がされていることを知らずに訪れました。私は予定を知らなかったのに、御開帳の日に行くことができ、普段は閉じられている大きな青い三体の金剛蔵王権現を自分の目でしかと見ることができました。

 

 圧倒されました。青い大きな弥勒菩薩、釈迦如来、観音菩薩の三体の像です。

 観音菩薩の右手の三鈷杵(さんこしょ)と呼ばれる密教の法具は、魔(外からの魔、心の中の魔)を打ち砕くもの。また、左手の日本のはさみ指の形は、情欲・煩悩を断ち切るもの。高く上げた足は魔を踏み砕くためのもの。からだの青色は、権現の大慈悲と大和の色(平和を愛する和の心?の色)だそうです。

 仏は自然そのものであり、自然は仏そのもの、という思想です。

 

 情欲・煩悩が、死と災いと滅びの元凶であることを知る日本人の心は、仏にすがっていたことがよくわかりました。

 キリストを信じる私ですが、この三体の青い金剛蔵王権現の像を偶像とは思えませんでした。先人たちの信仰と祈りに包まれて、何か優しく、有難い存在に思えます。

 

 聖書には、偶像を作ってはならないと命じられていますが、日本人にとって、心の拠り所としての仏の姿であったように思います。

 まことの神に敵対する心も、神を侮る心もありません。日本人は、権現の姿に神を見、目に見えない神を畏れ、神を敬っていたのでしょう。

 この時代の信仰は、神仏習合の信仰であって、仏は、地上に現われた神の姿であり、仏の像を見て、いのちを与え生かしてくださる神を崇めていたようです。

 

 日本人にとって、「権現」の姿は、仏となって現われた神の御姿でした。「権現」は、神仏習合の信仰を残しています。

 

 神社仏閣を巡るようになって、私は、神仏習合の信仰が、大和魂本来の信仰であることに気づきました。

 神社だけ寺院だけ、神道だけ仏教だけの信仰は、大和民族の魂を健やかにしません。

 この「権現」こそが、大和魂の古き良き時代の霊的遺産のように思いました。

 

 日本の仏教の中には、いのちの根源であられる目に見えない存在を畏れて、その存在に近づくための「仏」になるために、人としての正しい生き方を探求する道であると感じます。そして、生まれつき備わっている本能的な欲求の塊を知り、その心の荷を軽くするために、仏に尋ね寄り添ってくれる仏にすがりながら生きる姿がありました。

 

 日本の神道の中には、自然や万物を支配する目に見えない神々の存在にへりくだって、生かしてくださる神々への感謝と神の御前に出るために身魂をきよめる信仰があります。不浄を嫌い、祓い(はらい)を心がける日本人の精神に精神的な道筋をつけてくれます。

 

 日本の仏教の根底には、神がおられます。

 日本の神道の根底には、天地万物を造られた生けるまことの神がおられます。

 

 神仏習合の信仰は、大和魂を育みました。

 目に見えない生けるまことの神の中に仏がおられ、仏の中に日本人がおり、日本人の中に大和魂が培われていたのです。

 

 災害の多い日本国では、キリスト教も仏教も神道もともに集まって祈りをする機会を持つことがあります。それぞれの祈りによって、目に見えない存在の前に、日本人の咎を流して、怒りを鎮めて、見に見えない存在との間にある隔ての壁が取り除かれること、すなわち、和解できるように、ともに心を注ぎ出して一つになるのでしょう。

 

 日本人の魂は、宗教によって隔てられていません。災害などが起きると、みな一つの民族に戻るのです。大和民族の中にあった信仰の遺伝子がそうさせるのでしょうか。

 

 日本人は、宗教によって分断しているのではなく、神々を畏れる魂は、それぞれの信仰を尊重します。

 神々といっても、外国から来たすべての神々を、という意味ではなく、日本人の精神性と調和する、無色の純粋な真理に敏感に反応する魂を持っているのでしょう。

 

 神仏習合の信仰が大和魂に回復すれば、和の心も目覚めるでしょう。

 和の心が日本人の心を溶かすならば、宗教の壁を超えた純真な愛が芽生えるでしょう。

 

 神は、日本列島に、神を畏れる誠実な国民を造られました。

 日本国は、単一民族の国とされています。それぞれ渡来した民族の人々が、長い歴史の中で、一つに溶け合って、日本民族を形成して来たのです。

 世の終わりに御計画を持たれる神が、この日本民族の魂に触れて、大和魂(平和を愛し、神を畏れる心と、神が立てられた祭司であられる天皇を敬い、互いに和の心をもって、秩序正しく暮らし、神仏に手を合わせて感謝し、すべてのことに感謝する大和魂)を培っておられたのでしょう。

 

 神仏分離令により、仏教を排斥した日本国は、一度、大和魂を殺しました。日本人の大和魂は一度死にました。

 

 文明開化の大きな力強い波にのまれた日本人は、物質的豊かさをめざして、次第に精神性を軽んじるようになりました。神仏は、人間の成功のための手段とされたのです。人間が神となって、社会を動かしました。物質的豊かさの流れは頂点に達すると、下降し始めました。

 そして、神は、その流れにサイドブレーキをかけられました。社会の流れを無理やり、急停止させられたのです。パンデミックは、日本人の浮かれた心を正気に戻しました。

 人間が「主人」である生き方に亀裂が入り始めました。

 石の下にいるダンゴムシが石を取り除けられて右往左往するように、神を否定する偽りの闇の世界にいた日本人の心は、真実の光をあびて怯えます。

 

 仏教の教えを思い出す人が現れます。神仏に手を合わせる人が現れます。

 

 世の終わりが近づいたのです。

 「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。(愛は隣人に対して害を与えません)

 あなたがたが眠り(偽りの世界で夢を見る生き方)からさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、(互いに騙し合ったり争ったりする)闇のわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(肉の欲のために心を用いるのではなく、妬みの生活ではなく、光の子どもらしく、正しい生き方をしようではありませんか)」(ローマ13:11,12)

 

 日本人は目覚め、大和魂は息を吹き返します。

 大和魂は、目に見えない神とともにありました。神仏とともにあった魂には、平和と安心と希望がありました。日本人の心には、信仰があったのです。

 神仏分離によって、大和魂の土台は揺らぎ、根が切られたようになっていたのです。

 

 第二次世界大戦後、日本国は、大日本帝国憲法下の君主制から、日本国憲法下の民主主義の国となりました。天皇の君主制から、象徴天皇制へと変わりました。

 日本人の価値観は外からの圧力で、今までの体制は否認されて、新しい体制に切り替わりました。

 戦時中の教育に使っていた教科書の内容は、誤りとされて、黒塗りにされました。教師たちは、今まで教えていたことを否定されて、混乱します。何を信じるべきか、教える教師自身が見失う状態です。

 

 神仏分離令は、同様の混乱を大和魂に与えました。そして、いのちの灯が消えかかるほどに弱くしたのでした。

 

 しかし、神は、大和民族から、世界に希望を与える「イスラエルのメシア」ユダの総督を立てられます。

 大和魂を回復させた人々は、彼(霊的指導者)に従うでしょう。

 

 彼にある慈愛と和の心、大和魂は、日本人の希望です。日本人の心に希望の灯がともるでしょう。

 真理の神、すなわち、ユダヤ民族に聖書をお与えになった全能の神が、真理につく多くの大和魂の人々を、日本国に見いだされるのです。