ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

つぶやきから離れよう

 

 「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

 苦難と忍耐については、兄弟たち、主に御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

 見なさい。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。(主は、正しい人ヨブを試みることを悪魔に許されました。そして、ヨブは十人の子どもたちと家畜や財産を一日のうちに失いました。しかし、ヨブは地にひれ伏して礼拝し、言いました。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブは、主に愚痴をこぼしませんでした)

 また、主が彼(ヨブ)になさったことの結末を見たのです。(主は、ヨブの真実を祝福して、ヨブの所有物をすべて二倍に増され、十人の新しい子どもを与えられました。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福されました。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見、老年を迎え、長寿を全うしました)主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」(ヤコブ5:9-11)

 

 「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨(種を蒔くのにちょうど良い柔らかな土にする雨)や春の雨(穀物の穂をふくらませ収穫を完成する雨)が降るまで、耐え忍んで待っています。

 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」(ヤコブ5:7,8)

 

 農夫は、日常生活の中で忍耐することを体得しています。天候は人間の意志ではどうにもなりません。天候の変化に備え、それ(台風、日照りなど)に見舞われたときには祈りながら通り過ぎるのを待つばかりです。ただ、目の前にある状況を受け入れて自然と共生し、天の恵みとともに、すべてのことを受けとめるだけです。

 農夫は、天の恵みを知る人たちです。自然の脅威を理解しつつ、豊かな自然の恵みに感謝し、目に見えない力とともに生きているのです。

 農夫は、自然から学び、自然の道理を知っています。

 

 しかし、農夫ではない人は、日常生活の中で試みに耐え忍ぶ生き方をしているのでしょうか。耐え忍ぶ訓練を逃げ回ることもできます。

 

 信仰の訓練は、日常生活の延長上にあるようです。普段から、自分の思い通りにならない不条理を飲み込みながら生きている人は、信仰の訓練においても、「まな板の鯉」となって、自分自身を神にゆだねる者に造り変えられて行くことでしょう。訓練と思って耐え忍ぶことを、習得しているからです。

 

 神に遣わされたモーセは、イスラエルを先祖の約束の地カナンの地に導き入れるために、イスラエルを奴隷の家エジプトから連れ上って、荒野に入りました。

 四百年間奴隷であったイスラエルの民は、荒野に入ると水がないので、会衆が集まって、奴隷の家エジプトから連れ出してくれたモーセとアロンと争い、逆らって言いました。

 「ああ、私たちの兄弟たちが目の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。(良かったのに)

 なぜ、あなたがた(モーセとアロン)は主の集会(イスラエル)をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。

 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所(荒野)に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つようなところではない。そのうえ、飲み水さえない。」(民数記20:3-5))

 

 「モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。

 主はモーセに告げて仰せられた。

 『杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で、岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。』

 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。

 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。

 『逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちが(言い逆らう)あなたがたのために水を出さなければならないのか。』

 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

 しかし、主はモーセとアロンに言われた。

 『あなたがたはわたし(主)を信じず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼ら(イスラエル)に与えた地(約束の地)に導き入れることはできない。』」(民数記20:6-12)

 

 この時、神は、アロンとモーセを試しておられたのでしょうか。神の怒りは会衆ではなく、モーセとアロンに下りました。

 会衆が水がなくてつぶやくことを、神は知っておられたのでしょう。そのとき、神は水を出すことで、イスラエルを生かしておられる御自身の栄光を現わされる御計画だったのでしょうか。

 

 しかし、モーセもアロンも会衆に怒りを燃やし、「私たちがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのか。」と言って、岩を二度打ったのです。

 彼らは、私たちが水を出さなけれなならないのか、と言って、自分たちを前面に出して、神の栄光を隠しました。

 

 「聞きなさい。イスラエル。神が私たちに水を与えてくださる。全能の神、主が私たちとともにおられるのだ。

 エジプトから私たちを連れ出された主は、荒野にあって私たちを養い、約束の地に導き入れてくださるのだ。」と言って、会衆の心を主に向けさせなかったのです。

 水を与えてくださるのは、主です。それなのに、神の愛と慈しみとを会衆に知らせませんでした。水を与えてくださる主を覚え、主に感謝する機会を会衆に与えませんでした。

 

 民のつぶやきにのり自分たちの怒りを爆発させて、イスラエルの人々に、神に逆らうことは聖なる方を汚す罪であることを教えなかったモーセとアロンは、神の御前で罪を犯しました。

 イスラエル人が従うべき神は、逆らってつぶやくことが許されないほどに聖なる権威をお持ちのお方であることを民に示さなかったふたりに、主は仰せられました。

 「あなたがたはわたし(全能の神の愛と慈しみ)を信じず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼ら(アブラハムの子孫イスラエル)に与えた地(カナンの地)に導き入れることはできない。」(民数記20:12)

 

 民をエジプトの地から連れ上ったモーセとアロンもまた、荒野で息絶え、約束の地に入ることが許されませんでした。

 

 つぶやく者のつぶやきに耳を傾け、他人のつぶやきによって自分自身を汚し、神の栄光から目をそらすことがあります。そして、自分の怒りや不信仰や迷いとともに揺り動かされる感情によって、自分の冠(神の使命と聞き従いの実)を奪われてしまうのです。

 

 さて、葦の海の道に旅立った民は、途中でがまんができなくなって、神とモーセに逆らって言いました。

 「なぜ、あなたがた(モーセとアロン)は私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民数記21:5)

 

 イスラエルの民は、四百年間の奴隷生活からの解放を感謝する者ではありませんでした。荒野よりも、奴隷のほうが良かった、と言ってつぶやいたのです。

 「そこで主は民の中に燃える蛇(激しい蛇)を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。」(民数記21:6)

 

 つぶやくことは、自分の身を滅ぼします。それは、神に逆らうことであり、神を信じないことだからです。

 カナンの地を目の前にして、つぶやく人々はみな打たれて死にました。

 人は感謝する性質を持ち合わせていません。原罪を持っているからです。神の子羊イエス・キリストの血によって罪が贖われ、きよめられた人々でさえ、神を信頼することを自ら選ばなければ、肉の性質によって容易につぶやきます。つぶやきを止めるのは、信仰の力です。

 

 「私たちは、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。(つぶやく)彼らは蛇に滅ぼされました。(蛇は、悪しき霊です)

 また、彼らの中にある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。

 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(信仰があると自負している者は、つぶやかないように信仰に立ち続けて、救いを得なさい)」(コリント第一10:9-12)

 

 パウロは言います。

 「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことをつぶやかず、疑わずに行ないなさい。

 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:13-16)

 

 「よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな、立ち滅ぼされた。」(ナホム1:15)

 私たちは、神の住まわれるシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム(いのちの木のある都)、無数の御使いたちの大祝会(永遠のいのちを得る人々の世界、千年王国)に近づいているのです。

 

 私たちの試練はみな、人の知らないようなものではありません。先人たちも通った道です。神の与える試練は、私たちを目覚めさせきよめるために必要なものです。神は真実な方ですから、試練とともに、脱出の道も備えてくださるのです。

 

 「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2:12)

 

 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(コリント第一10:13)