ヤ・マ・トという音は、あるユダヤ人にはヘブライ語の「神の民」という意味の語句に聞こえるそうです。
大和民族の国は、やはり、日本人も信じて来たように、もう一つの「神の国」なのかもしれません。
日本人を日本民族と呼んでいる現代では、大和民族というのは古代の呼び名だと思うでしょう。
神は、大和民族の子孫を残しておられるようです。大和民族と呼ばれていた時代の民の子孫たちです。今では、自分が大和民族の子孫かどうかも知りませんし、そんなことは考えることもないでしょう。
大和民族の名残りを持つ人々は確かに残っています。それは、天皇家であり、古神道を守る人たちであり、修験道、古武道など、様々な古の道を継承している人たちです。
また、日本列島の中で混血することで、多くの日本人の中にわずかであっても、その遺伝子の断片があるのかも知れません。
大和民族の特徴は、天皇が中心の国を形成する民です。天皇の権威に対して、神に対するように厳かな敬意を持って身を低くする民です。
日本人は、自然と共生し、目に見えない生けるまことの神を畏れ、山や川や樹木や岩や、あらゆる自然物に神々への畏敬の念を抱く民です。目に見えない霊なる存在を、確かにおられる聖なるお方であると思っています。
日本人に信じる宗教はないけれども、目に見えない神々への恐れはありました。日本人の心には、先祖代々受け継がれた信仰があったのです。
ユダヤ民族のユダヤは、バビロン捕囚から帰還した南ユダ王国の二部族をさすようです。しかし、現在は、ヤコブの子孫のことをユダヤ民族と呼びます。ユダヤ民族十二部族をさします。
ヤコブの子孫は、奴隷の家エジプトで四百年の間奴隷であったとき、へブル語を話すへブル人と呼ばれていました。
信仰により、人と神に勝利して父祖アブラハムの契約(カナンの地の相続と、世界を救うキリストを生む約束)を勝ち取ったヤコブは、神に信仰を喜ばれ祝福されて、「イスラエル」という新しい名前を与えられました。
イスラエルは、信仰によって神の約束を勝ち取る「神の民」を意味しています。
ヤコブの子孫は、イスラエル民族です。それゆえ、ヤコブの子孫は、神の民であると言えます。
イスラエルの王、ダビデの子、知恵者であるソロモン王の箴言です。
「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。
私の命令を守って、生きよ。
私の教えを、あなたのひとみのように守れ。
それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」(箴言7:1-3)
しかし、イスラエル人の心は、神から離れました。
パウロは言います。
「イスラエルから出る者がみな、イスラエル(神の民)なのではなく、アブラハムから出たからといって、(アブラハムの子どもの)すべてが(アブラハムの)子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫(アブラハムの子孫)と呼ばれる。』のだからです。
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」(ローマ9:6-8)
神がアブラハムに約束されたのは、アブラハムの妻サラから生まれる子どもです。
サラが産んだ子どもはイサクひとりです。
妻サラ以外の女たちが産んだ子どもたちは、約束の子どもではなく、アブラハムの肉の子どもたちです。神が承認されない子どもたちです。
「兄弟たちよ。私(パウロ)はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(コリント第一15:50)
神から出た約束の子どもと、肉によって生まれた子どもとの違いは、天と地ほどの違いがあります。
なぜならば、約束の子どもには、神の承認があります。神の御霊によっていのちを得させられるのです。いのちを得ている約束の子どもたちは、朽ちる肉のからだを脱ぐと、新しい御霊のからだを着ます。
肉の子どもたちは、朽ちる肉のからだを脱ぐと裸の魂になります。なぜならば、肉のからだで、霊の世界にはいることはできないからです。
約束の子どもたちの集う永遠の世界には「死」がありません。
御霊のからだがなく、いのちを得ていない裸の魂である肉の子どもたちは、はいることができません。
アブラハムの時代に、「聖書」はありませんでした。
アブラハムは、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けました。
「アブラハムが、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人(神を信じる異邦人)の父となり、また割礼のある者(ユダヤ人)の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
もし律法による者が(世界の)相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。(違反があるから律法があり、また、律法によっては、かえって罪の意識が生じさせ、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められません)
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々(ユダヤ教徒)にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。
『わたし(主)は、あなた(アブラハム)をあらゆる国の人々の父とした。』と書いてあるとおりに、アブラハムは(生けるまことの神を信じる)私たちすべての者の父なのです。
このことは、彼(アブラハム)が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方(無から有を生じさせる神)の御前で、そうなのです。
彼(アブラハム)は望みえないときに望みを抱いて信じました。(妻が不妊の女であって年を取っていても、アブラハムは、「あなたの子孫は空の星のようになる。」と仰せられた神のことばを信じました)それは、「あなたの子孫はこのように(空の星のように)なる。」と言われていたとおりに、彼(アブラハム)があらゆる国の人々の父となるためでした。」(ローマ4:11-18)
神は、大和民族のうちに大和魂をかたち造ってくださいました。
大和民族には、ユダヤ民族のような神の律法はありませんが、神は、心のうちに「良心」を培ってくださったのです。
終わりの時代、希望を見い出せない世の中にあって、神は、凍えていた大和魂を溶かしてくださいます。神は、大和民族から世界の光となる人々を起こされるのです。
「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたし(主)は、イスラエルの家(十部族)とユダの家(二部族)とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約(石の板に書いた神の律法)のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ。―
彼らの時代の後に(神に背く者たちを諸国に離散させ、また、諸国から再び集めるとき)、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―
わたしはわたしの律法(御霊)を彼らの中に置き、彼らの心にこれ(御霊の教え)を書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)
私は、大和民族の一部とユダヤ民族は同胞であると思っています。
大和民族は、極東の島々にあって、エルサレムの神殿が失われた後にも、アブラハムが信じた生けるまことの神を祀る神事を行なってきた民族です。
イスラエルの国が失われた後も、神の祭儀は守られました。二千六百年以上もの間、万世一系の天皇が国の安寧と世界の平和とを祈っておられます。
私は、一つの幻をみました。
それは、日本列島から聖霊が風のように世界を行き巡って、イスラエルの地にはいられるのです。
日本国の目覚めた大和魂の意識が一つとなって真理を求めると、神は、世界を救う人を立たせられるでしょう。
その人の存在は、弥勒の世を待ち望む大和民族の希望であり、彼らはその人のうちにある慈愛といのちの光を見て従うでしょう。
そのいのちの光はアジアの国々の希望となり、世界に救いをもたらし(人々は信仰に立ち返り)、イスラエルに入るとユダヤ人の救いの時が始まるのでしょう。
イスラエルに住むユダヤ人たちは、神に約束された家(カナンの地にイスラエルの国)を持っていますが、神に喜ばれる信仰を持っていません。箱はあるが中身がない状態です。
日本列島に住む大和民族は、神に約束された家(神の都のある国)に入っていませんが、神に喜ばれる信仰を持っています。神が、大和魂のうちに神の律法(御霊)を置かれるからです。箱はないが、神の宝(御霊の信仰)を持っています。
神は、異邦人の時が満ちると、ユダヤ人が待ち望むメシアをイスラエルに入らせて、ユダヤ人たちの心に御霊の信仰を置かれるのでしょう。
こうして、二つに引き裂かれていたものは回復されるでしょう。
神の宝が不在だった神の家に、神の宝が戻って来るのです。
「―主の御告げ。―わたし(主)は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:34)