ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本から始まるいのちの信仰

 

 

 渦巻のような文様を「巴(ともえ)」というそうです。

 巴は水の渦をかたどったもので、太い部分を頭といい、細い部分を尾というそうです。頭が左に向かっているのは左巴、頭が右に向かっているものを右巴というそうです。

 

 陰陽を併せ持つ二つ巴の文様は、大陸から伝わったもののようです。

 そして、三つ巴の文様は、日本で始まったようです。

 

 舞楽に用いる大太鼓(だだいこ)の巴柄は、向かって左側は巴が三つ描かれており、右側は巴が二つ描かれているそうです。そして、渦巻きの方向もそれぞれ違うようです。

 

 大太鼓は対になっていて、その左右の太鼓を区別するために巴の数と渦巻きの方向を別にしていることが『江談抄』に書かれているそうです。

 向かって左側の太鼓は三つ巴で右巴(時計回りにまわっている)、向かって右側の太鼓は二つ巴で左巴(時計回りと反対にまわっている)と決められているそうです。

 

 主体を何に置くかで変わるそうで、神殿からみて大太鼓を置く場合は、三つ巴の大太鼓は神殿に向かって右側となり、一般向けの舞楽の場合、主体を観客に置いているため、三つ巴の大太鼓は左側となるそうです。また、朝廷とその他の神社仏閣の大太鼓を巴の向きで区別しているそうです。

 

 この巴の文様のことから、あることを連想しました。

 大陸から伝わった二つ巴では、日本の信仰を正しく表現できなかったのではないかということです。

 

 二つ巴を陰陽の全く性質の異なるものを併せ持つ文様とするならば、救いに至らないのです。

 私は、二つ巴の文様を霊的に解釈しました。

 大和民族の精神に影響を与えて大和魂をかたち造った神道と仏教として捉えました。神仏習合の信仰です。

 

 しかし、明治の神仏分離令の発布で、仏像は壊され、寺院は焼かれ、僧侶の地位は低められました。

 仏教が伝来する以前の古の日本の神道の世界にしようとして、かつて、朝廷や貴族や武士たちも厚く信仰していた仏教を卑しめたのです。

 

 神仏習合の信仰によって和の心が培われた大和魂は、明治政府による日本の近代化とともに、精神は踏みにじられて大和魂を犠牲にしました。

 

 二つ巴は、それぞれ一つ巴となって、いのちを失いました。心で感じていた日本人の信仰は、戒律的なものとなっていったのです。

 

 三つ巴は、世の終わりに回復する大和魂のひな型であったと考えます。

 日本国にキリスト教が伝来し、信者も起こりました。しかし、キリスト教も弾圧されました。

 「和を以て貴しとなす」の精神は、すでに崩れていました。

 人と人との争いを避け、互いに協力し合い助け合って、調和を目指す、理想の社会は泡と消えました。

 日本列島では、すでに多くの血が流されていました。同胞同士で殺し合った時代が長く続いていました。しかし、そのあとで、戦いのない平和が訪れました。

 江戸時代の日本は、やってきた外国人の目に平和な世界に映ったようです。

 

 その後、近代化がスタートし、信仰よりも物質社会の豊かさに心を向ける日本人たちが増加しました。

 その中にあっても、古からの伝統を守り続ける人々がいました。

 

 二つ巴(神仏習合)の信仰は、一つ巴(神仏分離)となってしまいましたが、古神道も仏教も、それぞれ信教の自由に守られて、古の道を守っていました。神仏習合の信仰に根を持っている、古の名残りを秘めた信仰も残っていました。

 

 その中から、世界を救うとされる「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」のふたりが起こるのだと、私は考えます。

 「イスラエルのメシア」は、神仏習合の二つ巴の精神の、修験道や古武道などのような、また、山岳信仰のような、山や自然そのものから目に見えない神仏を霊魂で体験し、聖なる存在を崇めているような人ではないかと思います。

 

 「アロンのメシア」は、古神道で神に仕え続けて来た血統の人であるような気がします。

 

 仏教は、人のあり方を探求します。

 古神道は、神々を聖なるお方として崇め、仕えます。

 二つ巴の信仰には、聖なる神と、聖なる神の御前で正しく生きることを追求する人の姿があります。天と地とが一つになろうとしても、性質が全く異なるので、融合することはできません。

 おのおのの一つ巴が集まって、その世界を目指すだけです。

 

 神の御子イエス・キリストを信じる日本人は、人口の1%といわれています。

 しかし、これで十分です。数ではなく質です。日本人のクリスチャンの中には人生をかけて信仰に生きる人々がいるからです。

 

 神は、どの国にも、また、どの民族にも、キリスト者を必要としておられます。

 神の子羊イエスの血によって罪が贖われた義人を必要としておられます。なぜならば、義人の祈りは聞かれるからです。

 また、神の御子イエス・キリストに自分の人生を明け渡した聖徒の血は、尊いものです。神は、世の終わりの時に、それぞれの国、それぞれの民族の中で、その国を贖い、その民族を贖う聖徒たちの尊い血を求められます。殉教者たちの血です。

 殉教者たちの血によって、神は、その国に、また、その民族に御救いの扉を開かれます。神に喜ばれる聖なる尊い聖徒たちの犠牲によるリバイバルです。

 

 神は、日本人のキリスト教会の中からも、キリスト者たちの信仰を量り、その尊い魂に殉教の使命を授けられます。

 日本列島は、神の御子イエス・キリストのしもべたちの尊い血によってきよめられ、きよめられた日本人たちの中には我に返って罪を悟り、罪を悔改めて、神に立ち返る人々が起こされるでしょう。

 

 これらの改心した日本人は、正しい生き方を示してくれる「イスラエルのメシア」に従うでしょう。

 「アロンのメシア」は生けるまことの神のことばをもって、一致した信仰の「イスラエルのメシア」を助けるでしょう。

 

 一つ巴の神道と仏教は、二つ巴の大和魂を取り戻します。

 そして、キリスト者の殉教者の血と信仰とは、二つ巴の大和魂に永遠のいのちを得させるのです。

 

 「イスラエルのメシア」も「アロンのメシア」も、また、彼らに従う人たちも、神と人との間の仲介者である神の子羊イエス・キリストの御霊を心に迎えるからです。

 神と人との仲介者である神の御子イエス・キリストの御霊は、神と人とを一つに繋ぎます。神のことばから外れていた人を、神のことばによって生きる者に造り変えるでしょう。

 

 日本列島から、永遠のいのちの信仰が始まります。それは、自然と共生し、いのちを大切にして目に見えない神に感謝をささげてきた大和魂に、キリストの御霊のいのちが注がれるからです。

 

 仏教も古神道も、キリストのいのちを受けます。御霊によって、日本人の信仰は完成するのです。

 仏教的な「イスラエルのメシア」、古神道的な「アロンのメシア」、そして、キリスト教の殉教者たちの血が一つとなり、三つ巴となって、弥勒の世の扉を開くのでしょう。

 

 それぞれの信仰には、真理があります。分かたれていた真理は、殉教者の血によって一つとなると、永遠のいのちをもたらします。

 真理を悟り、永遠のいのちを受ける神の子どもとされるのです。

 

 この新しい信仰(御霊の信仰)が、日本から始まり、アジアへ、世界へと広がって行くのでしょう。

 弥勒の世(千年王国)は、仏教徒のものでも、古神道のものでも、キリスト教徒のものでもありません。神と和解して罪が赦されたすべての人類のものなのです。