ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

奈良にあった千年残る信仰

 

 昨日、20日に、特別展の「神仏の山 吉野・大峯_蔵王権現に捧げた祈りと美_」を観るために、奈良国立博物館へ行ってきました。

 奈良国立博物館は月曜休館ということなので、月曜を避けて計画しました。

 五月三日の日曜美術館のNHK番組で、この特別展のことを知り、行ったほうが良いような気がしましたが、御心なのか、単なる自分の思いなのか、迷いがありました。

 すると、ほかの番組でも吉野のことを放送しており、三度も吉野に関する放送を立て続けに観ることは、偶然ではないように思えました。

 以前、圧倒された金峯山寺の蔵王権現像を思い出しながら、やはり、神仏習合の信仰の姿をとどめている蔵王権現から教えられることがあるように思い、計画しました。

 

 日曜美術館の番組では、藤原道長が華厳経の写経したものを筒に入れて、弥勒菩薩が訪れる「弥勒の世」に、人々に見つけられたい、と願って埋めていたと説明していました。

 弥勒菩薩は、釈尊(お釈迦さん)の入滅後、五十六億七千万年後の世に衆生を救うために降り立つ未来仏だそうです。

 

 今回行ってみると、藤原道長は自分もその時立ち会いたい、としながらも、写経の内容がその時代の人々にも伝えられて、みなの悟りとなり、救いとなることをも願っていたようです。

 

 藤原道長は、東大寺で受戒したそうです。華厳教のお経の写経でした。

 華厳教(けごんきょう)は、個別に存在する世界があり、個別の人々の全てに共通する真理の世界があり、個別と真理が妨げなく一体となる世界があり、華厳経の目指すのは、あらゆる個別同士が妨げなく融け合う世界のようです。

 

 私なりに解釈すると、一人ひとりばらばらの個別として存在する世界は、現在の一般的な社会のようです。一人一人が自分で決断し、自分で選択し、自分の人生を生きている世界です。

 個別の人々の全てに共通する真理の世界とは、人として生きるに際して普遍的真理があると悟った世界。それは、個別のものではなく、どの時代、どの世代の人々にも、また、民族や国や男女の違いを超えて共通するもの、すなわち、人間としての道理を悟る精神性の世界でしょうか。

 個別と真理が妨げなく一体となる世界とは、共通の宗教を信じる人々、あるいは、共通の価値観、信念を持つ人々が一体となる世界。それは、国や民族、年齢や男女の違いをも包み込む一体感のある世界でしょうか。

 あらゆる個別同士が妨げなく融け合う世界とは、国や民族や宗教の違いすらが、もはや、それぞれ主張せずに融け合う世界でしょうか。

 

 受戒(じゅかい)とは、仏教で仏や菩薩の前、または僧侶から戒律(守るべき規範)を正式に授かり、それを守ると誓う宗教儀式のことだそうです。

 カトリックの修道誓願のようなものなのでしょうか。

 キリスト教でもプロテスタント教会の場合、神学校へ入学することでしょうか。それとも、献身者に対する按手に当たるのでしょうか。しかし、誓いとか、守らなければならないこととか、そういう厳格な感じではないので、プロテスタントにはなじみのない儀式です。

 

 華厳教は、世界のすべては互いに徹底的にかかわり合い、また、妨げ合わずに成り立っているとし、実践法よりも悟りの世界そのものの構造を描き、悟りの世界図を精密に描く宗派のようです。

 仏の悟りの全体像を知ることに重心を置いているようです。

 言い替えれば、「弥勒の世」そのものに焦点を置いているようです。

 キリスト教に置き換えるならば、キリストの再臨と神の子羊イエス・キリストの統べ治められる「千年王国」に焦点を当てる信仰と言ったらよいでしょうか。

 

 神の子羊イエス・キリストは、ご自分を崇めさせることを目的としておられませんでした。神の御子イエスの願いは父なる神が崇められることと、父の栄光が現れることでした。

 神の御子イエスを信じて永遠のいのちを持つ者たちの信仰が、神の栄光そのものでもあります。なぜならば、キリストを信じることは、キリストを遣わされた神を信じることだからです。

 

 神に敵対するこの世の君(悪魔)が支配している、神を信じないこの世界にあって、神を信じることは、悪魔を敗北させることだからです。

 

 さて、現在公開されている藤原道長の書いた写経と、藤原道長が祈願したとされる蔵王権現鏡像(ざおうごんげんきょうぞう)を観たいと思った私は、奈良国立博物館に行く前に、藤原道長が受戒した東大寺の受戒堂に入って見ました。

 道長の信仰を知りたいと思ったからです。

 すると、その受戒堂では多くの先代天皇たちもまた、受戒されていたことを知りました。天皇方は、仏に望みを置いていたのです。

 

 今回の訪問で分かったことは、蔵王権現とは、仏が神の姿となって地上に現われた姿で、地上の神々が人々を助けるという考え方です。仏は天界にあって地上には来られないとのことです。

 神の中に仏があって、仏の中に私たちがいて、私たちの中に御霊の永遠のいのちがあると解釈していた私は驚きました。

 これが、神仏習合の信仰なのでしょうか。それで、天皇、貴族、武士たちも、仏の御加護を求めて、祈っていたのでしょう。

 

 そして、その信仰は、とても純粋で真っすぐなものでした。

 大仏を造った聖武天皇は、人々が思いやりの心でつながり、こども達の命が次世代に輝くことを真剣に考えられ、動物も植物も共に栄えることを願い、大仏の造像にあたっては、広く国民に、結縁(仏教上の縁、法要、参拝、写経、護摩などを通じて仏と結縁を結ぶ)を求め、国民の助力(国あげての信仰)によって完成しようとした点に、従来の東大寺建立とは明らかに異なるものがあるのだそうです。

 

 道長の信仰は確かなものでした。揺るぎないものでした。

 写経がのちの時代の人々の救いの助けになることを願っていたようです。

 願いは、天が聞き届けられ、2026年の私たちは、千年も以前の道長の写経を観ています。道長や、歴代の天皇方の国の安寧と秩序ある国体を願う思いは堅いものでした。真実な心から出たものでした。これらの祈りと信仰の上に、日本民族は立てられ守られていました。

 

 写経の内容は理解できませんが、道長の信仰心を知ることで私たちの鈍い思いを呼び覚ましてくれます。

 道長が祈願したであろう蔵王権現鏡像の前に立つと、静かなきよい空気に触れる気持ちになりました。

 長崎の26聖人記念館の中にある殉教者の遺骨の前に立った時に感じたよりも、しっかりとした歴史を感じる信仰です。日本国を思う確かな意志のある信仰を感じました。

 

 ここには、神仏への信仰がありました。

 宗教ではない、普遍の信仰がありました。

 仏教も古神道も「弥勒の世」の来ることを信じています。

 キリスト教は「千年王国」が地上に訪れることを信じています。

 ユダヤ教は「エデンの園の回復される世界」を信じています。

 

 私たちは、同じ世界を見ているのです。同じ平和な国を待ち望んでいます。

 信仰は一つです。

 日本列島では、この来るべき神・仏・人が一つとなる新しい世界を待ち望む信仰の祈りが、どの世代にも受け継がれ、どの時代でも祈られてきたのでしょう。

 この祈りは芽を出し、花を咲かせ、実を結びます。

 大和民族の信仰は、天皇を保持しました。また、大和民族の中から世界を救う神のしもべ(信仰の人)たちを起こすでしょう。

 

 そして、「弥勒の世」「千年王国」「エデンの園」それぞれの目指す世界は、神御自身がお建てになる一つの国、すなわち、死から復活され永遠に生きる神の子羊イエス・キリストが王の王となって治めるとこしえの国として、地上に建つときが、近づいているのでしょう。