一日間奈良の神社仏閣を巡って、東京に戻ると、別世界に戻って来たように感じました。竜宮城から帰って来た浦島太郎のように、自分のいた場所に戻って来たはずなのに、知らない人々が生活しており自分の居場所はないような、知っている世界とは違う世界になっているかのような驚きと孤立感を感じました。
始めに、普段利用している交通機関の中で感じました。何かが違う。何かが変わっている。
今まで、他の場所に行って帰って来ると、自分の巣に戻るような安心感がありました。しかし、今回は、ぞわぞわする謎の感覚、私と全く繋がりのないそっけない所に来たような、目に見えない壁に閉ざされているような感覚を味わいました。私の知らない世界、全く霊が一致することのない世界。
これは何だ、と思いました。何が違うのか。次第に、捉えられるようになりました。適格な言葉は、「波長が違う」という一言に尽きると思いました。
波長が違う。それは、周波数があっていないと、ラジオ番組を聴くことができないという状態です。ラジオは手もとにあります。また、ラジオ番組もいつもどおり放送されています。どちらも存在しているのに、周波数が合っていないがために、ラジオ放送が聞けない状態です。
魂の波長が合わない状態を、私は身をもって経験しました。
奈良で、電車の中で隣同士だった人、待合スペースで隣にいた人、神社の宮司、お寺の案内人、どの人とも、同じ空気を吸い、波長が合っていました。日本列島で生活している同じ住民として、霊的な隔ての壁はありませんでした。
しかし、東京は大和魂が眠っているのか、あるいは、今の時を知らず、いのちの道を選ぶための備えをしていないのか、霊的な事に全く関心を持たない現実主義の人々なのか、人々の霊性が一昨日までよりも、よりはっきりとしたように感じました。
彼らは、新しいいのちの世界が開かれるという霊的希望を悟らずに、闇にとどまることに甘んじる魂なのでしょう。
東京の中で、光を求める人、霊的に生きやすい世界を望む人、和の心を取り戻す人、大和魂の目覚めた人たちも多くいるでしょう。
しかし、一方では、闇にとどまる人たちも多くいるのです。それは、彼らの中に真実な求めがなかったからでしょう。あきらめか惰性か、霊的なことに思いを寄せることを思いつきもしなかったのでしょう。
もう、時は進んでいます。神は、随分と待っておられました。しかし、光を求めなかった人々の目からは、光が消えます。これは、後戻りができません。光を求めなかったので、闇に取り残されてしまったのです。
いのちの道に向かう人々は、光を持っています。感謝と希望と目に見えないものへの畏敬の念と信仰です。それは、彼らの魂が、今の時代を察知し危機感をもって真理を求める新しい心に導いたからです。そして、彼らが魂の警告をないがしろにすることなく、真摯に向き合って、魂の声に従った結果でしょう。
今までと同じように生活していても、備えのある魂は、いのちの道に向かっています。魂の声を踏みにじる霊の暗い魂は、それまでと同じように現実生活の中で生き、世界が変わって行くのを不安を持ちつつ流されて行くのでしょう。
奈良は特別な霊的守りのある土地のようです。
神は、古の大和民族の始まりの地が近代化の流れに押し流されないように、そこに住む人々の心を支配されたようです。神は彼らに、古のままの姿を守り受け継ぐように、と命じられたのでしょう。そして、彼らに修繕の技術をお与えになりました。
彼らは、大和民族を形成した神武天皇の神の国の国造りの見張り人なのでしょう。
奈良の地には、神に喜ばれる魂たちが、神の掟を守りつつ、終わりの時代の大和民族の使命のために、待機させられていたようです。
神武天皇の国造りは、未だに完成していません。神が望まれたのは、目に見えない神に仕える天皇とその臣民によるさざれ石の巌の国体です。目に見えない生けるまことの神に仕える神のしもべたちの神の国を、世界の国々を救うために、完成させられるでしょう。
終わりの時代に、神は大和魂を目覚めさせ、さざれ石(小石)の大和魂たちの祈りを集めて、大和民族から起こされる「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」を立たせられるでしょう。
また、神はこのふたりの真実な信仰に油注ぎをし、十四万四千人の神に忠実なしもべたちを召し出して世界に遣わし、神の民の国づくりを完成させるでしょう。
この神の国にはいる神の民とは、心に割礼のある新しい心の人々です。宗教にとらわれず、ただ真理を愛して、真理に従う純真な魂です。
今まで、神社仏閣を巡っているときに、幾人かの人とお話する機会がありました。何故か、いつも、互いの霊が通じ合うのです。初めてお会いした人なのに、まるで、親類のような遠慮のいらない会話ができます。
神社仏閣巡りをしている人たちの中に、澄んだ魂を見ることがあります。濁りのないそれらの魂と、真理の部分で同調するのです。
これから、ますます、目に見えない霊の世界での格差が広がっていき、また、その現実を実感するようになるでしょう。格差とは上下関係のことではなく、光を選んだ魂か、闇にとどまる魂か、の違いです。
いのちの道に向かう人々は、そのことを心に留めておきましょう。
同じ信仰の霊を持っている人々は、霊によってそれを悟るでしょう。同じ信仰とは、キリスト教、仏教、神道とかの宗教に区分されるものではなく、真理を愛し、真理を信じる信仰、すなわち、神の霊に教えられる御霊の信仰のことです。
「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。
気違いは、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか。』と言う者も、それと同じだ。(死の矢を投げている)
たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」(箴言26:17-21)
「憎む者は、くちびる(言葉)で身を装い、心のうちでは欺きを図っている。
声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。(その心には、七つの御霊の教会から締め出す悪がある。すなわち、その滑らかな言葉には、いのちの書から名前を消す毒気があるから)」(箴言26:24,25)
いのちの道に向かう人は、大和魂を取り戻して、目に見えない聖なる存在を畏れて、きよく正しく生きましょう。
世界が闇に包まれ、悪事が横行する社会にあっても、いのちの光を失わず、聖なる方の愛を信じ、感謝と希望と信仰を保ち続けましょう。